芸術とは何か?
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001 2026/06/13(土) 12:01:28 ID:qKA1fajGFA
芸術は、なぜ芸術なのか?
芸術だと思え、言え、信じろ、疑うなという強制力ゆえに芸術なのだよ。
完全なる暴力、不同意暴行なのだよ。
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032 2026/06/26(金) 23:16:15 ID:wlA1rdYmuo
資本主義に抱きついた芸術が、資本主義からは見向きもされない姿にこそ今日の芸術の苦しさがあり、常に目が泳いで金満金蔓を探探してしまうさもしさが、公金や、成金へと吸い寄せられて、金の匂いが立ち込める世界に居場所を確保せねばならぬ焦りと相まって、犯罪者と同じ行動パタンを取る輩へと芸術家の身をやつさせる。
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033 2026/06/27(土) 19:37:06 ID:xuVym5NENY
>>32 つまり、長年に渡り権力や権威に寄生しすぎた芸術は、金など必要でもない癖に、金を湯水の如く注ぎ込まれることに慣れすぎて、金の亡者となった挙句に金そのものの化身となったカネゴンのようなものだ。ゼロから金を捻り出す現代の錬金術を身に着けたつもりなのかも知れぬが、何のことはない、金の使い道に事欠く金持ちを騙して金をふんだくる組織的な闇バイトグループと異ならない。金余りの時勢に棲息する金食い虫なのだが、本家カネゴンもインターネットカネゴンなる暗号通貨みたいなものまで喰らうくらいだから、NFT時代にも生き残れると思い込んでいるようだ。
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034 2026/06/27(土) 21:13:59 ID:xuVym5NENY
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貨幣とはそもそも褒美であるから、芸術家は、褒美に値する何かを成し遂げねばならないはずなのであったが、近代以降は、褒美を出すものが消えたから、誰からも褒美を貰えぬ極貧=芸術家が定番となった。貴族や武家宜しく近代とともに没落したのである。本来であれば、帰農するか商業に転身専心すべきところ、官僚や士業、学問で身を立てるという権力寄りのポジションを狙い、総理公認さなえトークン的な詐欺でがっぽり稼ごうという邪が手を変え品を変えて世間の目を眩ませる芸術を捏造した。学問として、また、公共美術館や国立劇場という箱を後ろ盾にありもしない芸術を転がし始めた。裏では国家が加担しているのだ。
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035 2026/06/27(土) 21:54:03 ID:xuVym5NENY
[YouTubeで再生]

芸術家本人がカネゴンなのではなく、画商がカネゴンなのでもない。制度が、システムがカネゴンを徘徊させるのだ。芸術家は、このカネゴンを出現させる手伝いをしている。
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036 2026/06/29(月) 06:44:10 ID:OUh..2OJNc
037 2026/06/29(月) 07:04:29 ID:OUh..2OJNc
038 2026/06/29(月) 07:39:17 ID:OUh..2OJNc
039 2026/06/29(月) 09:14:23 ID:OUh..2OJNc
041 2026/06/29(月) 09:22:31 ID:OUh..2OJNc
042 2026/06/29(月) 09:25:04 ID:OUh..2OJNc
043 2026/06/29(月) 10:10:36 ID:OUh..2OJNc
誰が描いたかは関係ない(ダ・ヴィンチ、マーガレット•キーン、さいとうたかお、本宮ひろ志)
→誰でなくても構わない(バンクシー、ミスター・ブレインウォッシュ)
→誰も描いてなくても構わない(今ここ。生成AI)
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044 2026/07/05(日) 16:13:13 ID:.UsHEmB2cI

芸術という名詞を捨てよ。
表出、数寄、風流という名に改めよ。
さすれば、近代のほとんどのインチキ詐欺騒動は霧消しよう。
美術館も芸術大学も不要なり。
表出、数寄は、ディレッタンティズ厶で構わぬのであり、好悪抜きには成立できぬ趣味人の嗜み、嗜好品であらねばならん。
センスの高さはそれでなくては磨かれぬ。
パトロンにならず、川喜田半泥子たれ。
豪商自ら美を捏ねるという意味では、本阿弥光悦は正統派日本流の数寄、風流や。
パトロネージュに甘んじず、自ら絵筆を採り土に向き合い美を捏ねよ。
芸術とやらを購う無粋に堕すことなかれ。武野紹鴎、利休、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、青木木米、尾形光琳、酒井抱一、柳沢吉里、徳川頼宣、細川忠利、細川忠興、松平定信………
AIがどうしたという次元の低い話も吹っ飛び、ひたすら風趣を愛で、手ずから美を生み出す粋に心遊ばせるならぱ自ずから耽美、雅趣礼讃の境に憩う至芸至美の真髄に達するであろう。
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045 2026/07/05(日) 17:54:57 ID:T9eW5ci3Kw
>>44 ただの厨二病
10代のメンヘラ学生よりマシとはいえ、措辞や語彙のセンスが少しも円熟に達しておらず、却って貧相だ
文章ヘタな弁護士が書くチグハグな通達文のようでいながら、神聖だ芸術だとほざくから厨二臭くなるんよ。美意識以前に、恥の意識ってモンが欠ける
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046 2026/07/05(日) 18:37:27 ID:T9eW5ci3Kw

「日本の国主」という大逸れたセルフイメージを抱きながら、厨二病呼ばわりされなかった池田大作はセンスがいい。
どっかの誰かさんとは違い、膨大な著作や文章であれだけアジっていた割には、不思議と厨二臭が薄いのだ。※「法悟空」というペンネームは別として
格調高い戦前期の文章表現に慣れ親しんでいた世代であり、手塚治虫以降の漫画・アニメに影響される前の世代であったがゆえだろう。
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047 2026/07/05(日) 18:43:49 ID:T9eW5ci3Kw
世界のイケダ博士と比べるに、現代人は随分と軽薄であり、言葉も見すぼらしくキッチュである
戦争体験が必要とは言わんが、死を身近に感じる環境に身を置かねば、ヒトは自ずと生成AIモドキの空っぽな言語マシーンと化すのかも知れん
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048 2026/07/05(日) 19:44:44 ID:.UsHEmB2cI

まこと、造形したり、描画したり奏でたりする能力には価値がある。創造だからである。その価値を認める仕組みは世の中にあってしかるべきである。但しそれが西洋近代芸術のようであるべきだとは言えないし、近代西洋芸術のようでしかありえないとも言えない。ならばどんなあり方が適切なのかについて、近代西洋芸術以降に真剣に考えた形跡がないことが問題である。本当の原点に戻るなら、芸術とは、言葉を語れず歌も歌えない動物たちがこの地上の奇跡を喜びはしゃぐ姿から始めなければならない。どうやってどんな身体表現で嬉しさを表すのか?幸い人には様々な方法がある。表せるのは喜びだけではない。ならば何を表現してきたの?表現できるの?
ただそれを芸術とは呼びたくはない。一番近い言葉なら生命であろうか。
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049 2026/07/05(日) 20:02:18 ID:kSI/lILrjM
> 一番近い言葉なら生命であろうか。
二番煎じのパクリ乙
生命うんたらってのは、池田大作が好きな言い回し
芸術家のやる事なす事言う事は、全て池田先生の手のひらの上なんのよ
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050 2026/07/05(日) 22:30:58 ID:.UsHEmB2cI
気韻生動
岡倉天心もこの概念を重要視し、日本美術の近代化において「形を描くのではなく、生命を描け」と弟子たちに教えの根幹として説いた。
ここに言う気韻とは、
この世界に満ちる生の気(の響き)がその作品を契機に引き寄せられ、降り籠り、躍動を始めるとするある種汎神論的な発生の神秘に類する現象を見ているのである。
東洋的な「芸術」とはそうしたものであった。
神を降ろす技、命を生み出す技としての「芸術」である。
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051 2026/07/06(月) 09:27:02 ID:3XCZYcpiu2

バイブレーションの懐胎、胎動、産声。
生命を吹き込み息吹かせること、そのバイブレーションを受け取り、感応すること。
胎動までは作家の手の内、産声を上げてからは共有されたバイブレーションの波紋だ。
これこそが本来のパブリックアートなのではないのか?
芸術を拝む対象にしてしまった近代美術館の構造的偽神殿を解体しなければならない。
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052 2026/07/06(月) 16:37:19 ID:7TUtyma1G6
芸術ってんなら芸と術が無いとな
アートは芸も術も必須じゃ無いけど
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053 2026/07/07(火) 11:02:15 ID:eYHULoLdB2

気韻生動の東洋的「いのちの芸術」の対極に育ってしまった『芸術』を拝む対象にしてしまった「近代美術館の構造的偽神殿の成立史」を語るとなると長くなる。
その東洋とても、西欧に毒されては、あたかも秘仏御開帳のごとく礼拝する儀式行為に擬えて『芸術』を扱うに至るのであるから、嘆かわしくも愚かなことである。
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054 2026/07/07(火) 17:04:39 ID:eYHULoLdB2
055 2026/07/08(水) 08:03:27 ID:MpOKI1nCq6
056 2026/07/08(水) 10:14:21 ID:MpOKI1nCq6
>>55 それぞれ腹に一物ある食わせもの達による「勅命」(天皇の命令)を捏造しての強制的な秘仏開帳……
ここで言いたいのは、日本美術の近代の幕開けに「国家権力」が不可欠であった事実だ。
「芸術」は暴力だという本質は「権力」のことである。神殿ではなく「偽」神殿である理由もまたここにある。
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057 2026/07/09(木) 10:22:31 ID:o9wxXXHghI
>>56 日本の近代美術史において、国立美術館は戦前までは存在してはいなかった。明治時代から産業博覧会の後を継いだ美術展覧会は開催されてきたが、ついぞ国立美術館は建設されなかったのである。ここに芸術という権力の秘密がある。欧米では国立美術館は、ナショナリズムや帝国主義と結びついて展開し、ナチス・ドイツなどは古典写実主義以外の芸術を退廃芸術として排斥した。ハウス・デア・ドイツェン・クンスト(1937)がその中心拠点美術館であり、Führermuseum(総統美術館)計画は遂行できずに終わった。
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059 2026/07/12(日) 20:37:46 ID:2oERsIxLis
>>57 戦前の日本に国立美術館(偽神殿)が建てられなかったのはなぜだろう?
戦前の日本には皇室を中心とした国家神道が全国津々浦々を統べる天皇国家体制であったから「視線を管理する装置」、「拝む装置」の必要に迫られなかっただけではないだろう。国立の帝室博物館(1900年〜前身が帝国博物館1989年)には皇室への献上品としての美術コレクションは公開はされていたが、美術館ではなかった。
芸術とは国民国家には限定されぬ基軸芸術なのであり、芸術覇権なのである。
その覇権はヨーロッパの中国と称されるフランスが発祥であり、17世紀絶対王政ブルボン朝のルイ14世の創案に源流を遡る。芸術の都パリの原点はフランス革命前の絶対王政期にあったのだ。
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060 2026/07/12(日) 21:04:42 ID:2oERsIxLis
先立つ16世紀、イタリアルネサンスの曙光はヴァロア朝フランソワ1世のダ・ヴィンチ招聘によりパリに最初の陽が差し込んだ。だがそれはやがて自由な商人文化の気を削がれ、宮廷マニエリスムへと萎む。
他方カトリック教皇庁本拠地イタリアでは、宗教改革の余波への対抗でアンチロゴスのイメージ戦略を計り、ルネサンスからバロックへと、より鮮烈で劇的、イメージ喚起的な破調の美への転換が起きていた。
ヴァロア朝の後を襲ったブルボン朝は、再びイタリアバロックの華を摘みに出掛ける。ベルニーニという華であるが、喧嘩別れで逃げ帰られてしまう。
しかし、フランスは既にヨーロッパの中国に変身を遂げつつあり、中華思想的な誇りを育て、イタリアと袂を分かっても絶対王政に相応しい独自の芸術戦略を磨く段階にいたのである。
ブルボン王朝の古典主義、フランス革命後の新古典主義は、共に一貫して「ロゴスと普遍」をテーマにしていたようだ。擬ルネサンスであり続けたのだとも言い換えられよう。新古典主義はアンピール様式を経て反動としてのロマン主義をもたらすが、これも折衷して飲み込む自律的な芸術運動が開始されてモダンアートに接続するのだ。ここに来てイデア、ロゴス、芸術が美によって束ねられ、基軸アート、芸術覇権はパリにおいて確立され、そして、ルネサンスの種を保持してきたイスラーム文明が、サウジのムハンマドによる普遍価値の象徴《サルバトール・ムンディ》奪還というかたちで、その歴史へ再び姿を現した意味もまた理解せられるのである。
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061 2026/07/13(月) 05:35:19 ID:IUINSsdka6
革命期フランスではロゴスの新古典派に対して宮廷ロココが退廃芸術とみなされて排斥された。古典主義はロゴスを通して普遍的なイデアに通じるという構図が重要である。
ナチス・ドイツはもやはり古典主義に依ったが、ナショナリズムやアーリア民族英雄主義に留まり、社会主義ソビエトは、古典主義ではなく社会主義リアリズムに依って抽象表現主義や印象派以降の芸術表現を排斥した点が普遍主義からの距離、即ちイデアという普遍主義根拠を持てぬ賊軍に堕ちる種を宿していたと言えよう。
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062 2026/07/13(月) 13:02:44 ID:IUINSsdka6
元はといえば、プラトニズム+キリスト教→新プラトニズムに基礎付けられたのがヨーロッパ神学ではあったのだ。
ところが十字軍→イスラームに保存されていたアリストテレス哲学の逆輸入→ルネサンス→新プラトニズムの再生と神学的動揺→宗教改革となったものだからフランスでは古典主義&デカルトの機械論と大陸合理主義の形成→絶対王政理性主義の萌芽→啓蒙思想→フランス革命と玉突き的に歴史が動く。
片方でイギリスにおいてはローマ辺境の非世襲的部族的実力主義の伝統に基礎を置く議会をもつがゆえにカトリックからの離反がもたらした国教会主導の政教一致絶対王政の目論見が市民革命で流産した。それがアメリカ独立戦争を経てフランス革命へと連鎖したというのが、フランス革命前史である。
つまり、何であれほとんどの原理、主義といったものはその成功ゆえに滅びるという歴史法則をここに見るわけである。
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063 2026/07/13(月) 16:52:27 ID:IUINSsdka6
日本の国立美術館創設は1952年、サンフランシスコ講和条約の年であるが、皇室コレクションの公開はトーハクであり、美術館創設とは直接的な関係がない。
世界は片隅の日本の状況を余所にこうして芸術覇権を築き、国際社会復帰というなら国立美術館も……という大きな流れの中にある。
芸術という権力は、一国家内には留まらない。それは近代文明覇権なのであり、なぜフランス?なぜパリ?の答えを述べるなら、古代ギリシアからキリスト教、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を語らねばならない。
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064 2026/07/13(月) 17:01:53 ID:IUINSsdka6
本来はイデアからもロゴスからも遠い「芸術」が、美によってイデアの一角を占めることになり、ロゴスも奉仕する形で統合を果たし、主観的感情や宗教から独立した普遍性を獲得することで「芸術」の覇権、基軸アートというものが成立することになった。
フランスはロゴスにこだわっただけなんだけれど、「芸術」における美がイディアなものだから、それが幸いして普遍性を獲得し、「芸術覇権」というものを確立する僥倖に浴したというわけである。
美はイデアなのに、美というイデアを詰める学としての美学はロゴスによる美の追跡実現工法を早々に諦めてしまった。「芸術」が美から離反(逃亡)して以降は、普遍を語れぬ立場なのに、樹立された「芸術覇権」の上に胡座をかいて基軸アート認証を盾に暴力を振るうだけのヤクザなゴロツキに堕したのが現状である。
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065 2026/07/13(月) 17:10:25 ID:IUINSsdka6
その異常事態を招いたのがカントだ。
カントは現代アートをおかしなものにした戦犯だと言えるのかも知れない。
カントに言わせれば、美はイデアではなく、主観的で感性的なものである。その主観的判断には「普遍性要求」が伴う。美には概念的規則がない。美を生み出す方法を理論化したり、法則化したりすることはできない。そこで「天才」が登場する。「天才」とは、「芸術に規則を与える才能」である。天才は規則に従うのではなく、作品によって後から規範となる。しかし天才自身も、自分の創作原理を説明できない。
つまり、美の創造は再現可能なロゴスではなく、自然が天才を通して働く営みとされる。しかも天才を投入することで規則やルールまでもを天才に委託してしまったのだ。なんと便利な天才。芸術は天才の独壇場で、凡夫には触ることのできない特権的で特殊な禁足地だ。
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066 2026/07/13(月) 20:48:13 ID:IUINSsdka6
カントが美をイデアならぬ主観としたことで、結局は芸術の美からの完全なる剥離をもたらすことにもなった。何故なら主観の牢獄では実務家たる天才芸術家といえども実は手も足も出せないからである。遂には主観だけに全権委任された「天才」達の悲鳴叫喚が避けられず脱走が図られてしまった。かくて現代アートは、一切美を相手にはしていない。
美の何たるかを語れぬカントは、天才を美の司祭として導入する他なかったが、その天才とやらは美を担えなかった。或いは、主観は独房に放り出されて何もできなくなった。指一本も動かせない芸術の主観牢獄への拘禁刑がカントの嘘のせいで生まれ、芸術家たちをギリギリと苦しめたのだ。
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067 2026/07/17(金) 16:12:37 ID:iCMAQ.8nMU
美は突然現れ、たまに我々のなかの誰かが模倣出現させる事があるけれど、ロゴスでは追えない。
美を追うロゴスが見つからない。ロゴスで美は追えないから、実践的に見つけ、捕まえるものである。常人には共有不可能なそれができる才能を天才と呼べばいいだろう、そうカントは考えた。
カントは美をロゴスで追う困難回避に、美はイデアではなく主観だと飛躍し、天才というブラックボックスを導入してケツをまくって逃げた。
それだけならまだしも、天才の一人相撲も回避せねばと天才とやらは万人にこれを美だと認めろと普遍化要求を人々に突きつけてくるというのだ。美を勝手に恣意的操作可能な安いものに貶めて、規則を設定できる特別な権力を天才に付与した戦犯がカント。
基軸アートや芸術覇権の元凶はカントにあり。
カントは最初に音を上げて匙を投げた敗北者に過ぎす、敗北の後に屁理屈をこねた先駆者だというだけ。カントは哲学界のマルセル・デュシャンだったわけだ。
デュシャンも負けは認めてはいない。二人とも負けて、誰にも負けたと悟られないように逃げただけなのだ。それ程に美は手強いということや。大半の芸術家は逃げ出す。哲学者もや。敗者のくせに美は天才が創設可能なルールに過ぎないと二人とも考えた。片方は屁理屈家、片方は実践者という違い以上のものはない。天才などというものも芸術界にはいない。美の追及から逃げ出した天才が芸術の規則やルールを敷けるわけは最初からなかった。
システムや制度、覇権が基軸アートを決めるのである。
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068 2026/07/17(金) 19:54:28 ID:iCMAQ.8nMU
実はこれはカントオリジナルではなく、イギリス経験論の、デビッド•ヒュームの受け売りをカントが展開したものに過ぎない。ヒュームは寸止めで主観とまでは言わなかった。趣味だと言った。余計な天才を持ち込んたり、普遍性要求という傲慢をかましたのがカントである。
普遍性要求は認証覇権争いが回収するしかなかったのが現実。カントは普遍性要求などという分かったような分からないことを持ち出さざるを得なかった。普遍性要求に似たものは芸術覇権という権力でしかなかった。
とにかくカントには美がわからなかった。天才という助け舟を出して、その普遍性に関しては、普遍性要求を措定して布教宣伝と共感だけで広がるものとした。以上。
カントは説明から降りたことで芸術論に負けた。そして意識的か否かを問わずそのカントと同じ轍を全ての芸術関係者が踏んで今日に至るのだから、敗者の道をゾロゾロ歩んでいるのが現代アートだ。
美なくして普遍なしなのだから、本来ならば現代アートは普遍不在を認めなくてはならない。
つまり現代アートは芸術ではない。潔くそれを認めなくてはならない。
美という普遍的根拠を放棄した以上、誰かが「これが普遍である」と認証しなければならなくなる。
そこで誕生したのが芸術覇権であり、基軸アートである。
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069 2026/07/18(土) 12:52:04 ID:rqTsJ7yIVE
現代アートから美が剥離して問いとか批判とか認識とかブツブツ言いながら文脈自己循環となり、基軸アートにつながる。カントが理論的に敗退した後、デュシャンが実践的に敗退して美からの剥離に逃げるんだな。
酷い言い方を許してもらうなら、カントが言うように、実践局面でせめて天才芸術家による普遍要求による美の再生産サイクルが回ればまだしも、そうはならず、主観に籠る拘禁刑に等しい美からの逃走(脱走?)を決行し、規格ルールをでっち上げて覇権と基軸アート宣伝で暴力的に普遍要求だけをばら撒いたのが現代アート。
もはやそれはどうでも良い。カントの犯罪である美を主観の牢獄に閉じ込めたことが実践家の苦悩、苦悶を積み増し、思い余っての脱走ゆえに美は芸術から永遠に遠ざけられることになったからだ。
普遍なく美なき芸術とは?それは芸術ではなく芸術規格。ISOみたいな標準規格であり、基軸アートを握った芸術覇権が認証する適合品だ。芸術とは美も意味も価値もかなぐり捨てて認証による価格をインサイダーが自由に操作するマネロン媒体である。
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070 2026/07/19(日) 05:52:58 ID:xeMlKvIYPE
美の難解さを扱うなら、プラトンのイデア論が最適、最善であるのに、これを叩き潰した近代哲学が間違った。
芸術とは、イデアを生み出すものではなく、イデアと出会うための生成の場である。
美のイデアはロゴス(概念)、パトス(情動)、生成・形態形成という複数の経路で現実に顕現するが、芸術は特にパトスと生成に関わる。だから芸術をロゴスだけで理解しようとしたヘーゲルは十分ではなく、感性を主観に閉じ込めたカントも、美そのものを取り違えた。
プラトンは芸術を「ミメーシス(模倣)」と見て真理から遠いとしたが、むしろそのミメーシス性ゆえに、作品を手掛かりとしてイデアへ接近できる。芸術は非現実の領域だからこそ、ロゴスによる概念化の対象にもなり得る。
制作では、最初から完成した美が見えているわけではない。朧げな美の予感を頼りに、絵具・石・音・言葉などの素材と格闘する試行錯誤の中で、思いがけずイデアと出会う。その意味で、プラトンの「想起(アナムネーシス)」は哲学的対話だけでなく、素材との対話による制作論へと拡張されるべきである。
美の困難は一方向性関数だからである。
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071 2026/07/19(日) 11:12:59 ID:xeMlKvIYPE
数学的・情報科学的に最も冷徹な真実は、美の構成要件が「関数」ではなく「一方向性関数」の構造を持っているからだろう。
美の「検算」は一瞬だが「逆算」ができない。美の検算は他者が行なう査読のようなものだ。
暗号理論において、「順方向の計算(検算)は一瞬でできるが、逆方向の計算(解の特定)はスーパーコンピュータを使っても不可能に近い」という性質を持つ「一方向性関数」が存在している。
美の構造はこれと完全に一致している。
検算(認知)の客観性:極限まで洗練された幾何学や数式(例:黄金比、白銀比、オイラーの等式など)を提示されたとき、私たちの脳はそれを「美しい(正しい)」と一瞬で判定(検算)できる。これはバグでも主観でもなく、論理的な正しさの確認である。
逆算(創造)の不可能性:しかし、「では、誰もが美しいと認める、これまでにない全く新しい幾何学のバランス(解)をゼロから導き出しなさい」という問いに対して、それを一発で導き出す数式(アルゴリズム)は存在しない。
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072 2026/07/19(日) 18:13:27 ID:xeMlKvIYPE
芸術家とは、美の潜む居場所を知っており、探し当て方に長けた名人。
実際に美に出会ってからはそれを他者に伝えられるミメーシスに移せる表現技術者だ。芸術家の「才能」は美を知っていることではなく(知ってはいるのはもちろんだが)、探索空間を効率よく枝刈りする能力と捉えることができる。これはAI将棋が全探索ではなく、評価関数と探索戦略によって現実的な時間で強くなっているのとよく似ている。芸術家は訓練により本来ならば総当たりでしかたどり着けない美に将棋の名人のように最短でたどり着けるのだ。
直感と訓練、反復、パタン認識により、ショートカットをものにできているのが芸術家だということになり、一方向性関数であるが故に一旦たどり着いた美のミメーシスは、誰の目にも美だと伝わりやすいのである。つまり一方向性関数だから布教宣伝する制度など要らない。
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073 2026/07/19(日) 20:05:23 ID:xeMlKvIYPE
カントのように主観の檻に閉じ込めた後、謎の天才を召喚し、作品が美であることを普遍化要求を振りかざして布教、宣伝する制度や仕組みなどは無用なのである。にも拘らず、現実はなぜかカントの敷いたいかがわしいレールの上をスルスルと滑り出してしまい、現代アートという怪しげな代物を産み落としてしまった。
まとめると
イデアは存在する。
イデアの顕現には複数の経路がある。
ロゴス
パトス
生成(形態形成)
芸術はパトスと生成を主経路とする。
生成はイデアを創造するのではなく、イデアとの出会いの場である。
ミメーシスとは、その出会いを他者へ伝達可能な形態へ移す行為である。芸術家は制作プロセス内で発見する。このミメーシス生成プロセスは一方向性関数構造なので、受信した万人が(恰も自然の美を前にした時に直ちに美のイデアを思い出せるように)美のイデアを想起することは容易い。ある意味コロンブスの卵である。
イデアそのものは提示できない。
したがって、その出会いはミメーシスとしてでしか他者へ伝達できない。
ゆえに芸術とはミメーシスである。
芸術家とは、その第一のミメーシスを生み、後続のミメーシスの起点となる者である。
カントは感性を主観と取り違え、ヘーゲルは生成を概念へ回収してしまった。
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074 2026/07/20(月) 08:51:41 ID:T.6wV5X6bM
例えば自然が模倣でなく美のイデアを表出し、そこから美のイデアを汲み取った芸術家がある表現方法でミメーシスを制作して人々に伝えることができたとする。芸術が存在するのは自然か?ミメーシスか?
ミメーシスである。芸術とはミメーシスだ。
さて、ここで聞きたい。AIは、私の見る所、芸術ではないかも知れないが、美を制作する能はあると言える。これはミメーシスの一種なのに芸術ではないのか?どんなミメーシスが芸術なのか?
人間の中にもAIのように既存の美を学習した中から美の連想を働かせてイデアに出会うことなくミメーシスの模倣で制作する人々はおるからね。
驚くほど真の芸術家は少ないんだろう。モネやドガは芸術家であるけれども、狩野派の大半は芸術家ではない。人々が見たことのない美を提示してみせたスタンリー・キューブリックやリドリー・スコット、帝国少年も芸術家と言えるね。
世に溢れるミメーシスの『ミメーシス起点になった作家』が芸術家なのだよ。
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