芸術とは何か?
▼ページ最下部
001 2026/06/13(土) 12:01:28 ID:qKA1fajGFA
芸術は、なぜ芸術なのか?
芸術だと思え、言え、信じろ、疑うなという強制力ゆえに芸術なのだよ。
完全なる暴力、不同意暴行なのだよ。
返信する
002 2026/06/13(土) 12:12:04 ID:qKA1fajGFA

東日本大震災以降根源的暴力をテーマとした作品を展開し始めた鴻池朋子が思っている意味で暴力なのではなく、芸術表現である事を表明している時点で表現行為そのものが暴力なのであり、不同意暴行なのである。
返信する
003 2026/06/13(土) 12:19:11 ID:qKA1fajGFA

世界が暴力に満ちているのではない。公然と美術館という公共空間を設えて入館者をレイプするのが芸術であり、芸術的暴行なのである。
返信する
004 2026/06/13(土) 12:34:29 ID:Bfhg4DRA4A
005 2026/06/13(土) 12:35:34 ID:qKA1fajGFA

ピカソもゴッホもあの絵のように世界を知覚、認識していたわけではもちろんない。彼等は知覚とは無縁に表現形式を構築し、表現してみせたに過ぎない。表現形式の発明家気取りで泥団子をピカピカの鏡面に磨いてみせる子供のように表現形式と戯れた。
知覚とは無縁で言いたいこともないが、表現にだけは形が与えることができてしまう時、その表現がなにゆえ芸術だと言えるのか?流行するわけではない。流行するならそれは芸術ではなくファッションという呼び名がある。
芸術なのである。何ゆえに他の何かではなく芸術?
強制と暴力以外にはないだろう。
返信する
006 2026/06/13(土) 13:06:53 ID:qKA1fajGFA
コンセプトやモチーフなどは現代アートには不要である。
古来、絵画や彫刻作品のモチーフや画題は必ず宗教や神話のナラティブ可視化でありました。昔話のモチーフは、文化的な価値観でありました。
可視化可感化装置づくりこそが芸術であり続けてきたわけです。
ところが、関係ないことであるのに、たかがカメラの発明に気圧されて、可視化可感化の情熱が冷めていきました。より正確にはカメラ以前にオブスキュラ辺りから画題が変容を迫られ、既に金持ち肖像画やら、金持ち装飾デコラへと芸術が手仕事職人化していたからでもあります。
金持ちとの付き合い方を変えねば生き残れぬ切迫した事情が19世紀に生まれたわけです。
そこから生み出されたのがサロン、画壇、貨幣化であり、オークションなわけですわ。貨幣化ですから貨幣と同じく使用価値は失われてまいります。コンセプト、つまり、言いたいことがあるという事情自体が消えてゆく。
返信する
007 2026/06/13(土) 13:08:26 ID:qKA1fajGFA

言いたいことなどない者が、映画を撮り、歌を作り、文章を書き、絵を描く?否、言いたいことがある者たちは、娯楽、エンタメ方向への大衆化に走り出した。辛うじてコンセプトは残り、メッセージ性は個人化しつつ共有共感を求めることで集客する。
ならば芸術は?芸術は、エンタメにはならずに踏みとどまって何を支えている?
むしろ犯罪者の描く絵画などの方にこそ耳目は集まったりなどもして。
貨幣化はまだ保守されているのか?どうしても芸術貨幣である必要はもはやない。
で、暴力、不同意暴行しか残らないのが、現在地。エウリアン的画廊監禁詐欺強奪はそれほど例外ではないのである。
返信する
008 2026/06/13(土) 13:44:24 ID:jPGjCrcOLc

假屋崎省吾 日本のフラワーアーティスト、華道家
ホテルやデパートのロビー、迎賓館、海外有名芸能人と海外政府要人の出演する場所に花を設置。必ず花を飾らなくてはいけないわけではなくコネの世界
返信する
009 2026/06/13(土) 14:04:32 ID:qKA1fajGFA
010 2026/06/13(土) 17:56:43 ID:qKA1fajGFA
芸術を強制的暴力だとまで看破した先人を寡聞にして聞かぬが、エウリアンと大差ないことすら誰一人気がつけぬのは恥ずかしいことである。
まともな芸術史を、芸術関係者以外が書けないのは、組織暴力が、死人や詐欺被害を訴えるものが皆無であることを盾に洗脳カルト以上に強力な利権の城塞を全く異質な伝統の上にハッキングして築き上げてしまったからに他ならない。
なぜこれほどまでに防禦が固く、堅牢にして不落であり続けるのか?攻め落とそうとする敵が現れないのだ。何らかのタブーが覆い尽くしているのか?何か良きものが近代まであとを引き、その変転の歴史を非難がましく眺める視線を遠ざけてきた。その理由の一つは芸術家にはなれない周辺手仕事職人の存在である。単なる工作、描画から始まり、何らかのクリエイションに携わる職業人らの存在が、遠巻きに芸術の周りの衛星となり、恰も科学における数学のように芸術というコアを囲繞して守りを固めているようなのだ。生成AIの登場が芸術に引導を渡すとしたら、芸術を直接叩くのではなしに、この周縁衛星を撃ち落とすことから崩壊が始まるのかもしれない。
本来、クリエイションにおける数学的ポジションなどでは芸術はありはしない。
返信する
011 2026/06/13(土) 20:57:10 ID:qKA1fajGFA
芸術とは芸術大学を卒業した芸術家の作品のことだと言うのはまだ生温い。
芸術とは芸術大学や芸術学部の存在に直接的に依存している空海の屍みたいなものである。芸術家にはならぬ数多のクリエイター達が五百羅漢であり、十二使徒であり、死せる孔明生ける仲達を走らせているのである。
或いはこうも言える。実在僧侶は高僧といえども尽く凡夫だらけであるけれども、如来が存在するるのは、僧徒がおるからであると。
返信する
012 2026/06/14(日) 20:13:31 ID:J9FvEKQ1CM
絵なんか元々富裕層の趣味で画家に描かせたものなんだから
大衆から金を巻き上げて世界を回っている催し物に行かなければいいんだよ
アート情報として知って欲しかったら逆に来た人にお礼をするくらいでいい
返信する
013 2026/06/15(月) 12:26:05 ID:xBf5Qq7dLU
芸術系大学や芸術学部が、表現形式開発ラボなのであればまだしも、表現形式を開発、開拓しているのはそこではなく、巷間に居並ぶ個人表現者たちなのである。表現形式の歴史やテクニックを過去形で集積し、記録参照、一覧化する場所であるに過ぎず、博物学でしかないわけだ。
中身なき、コンセプトゼロの現代アートが、何ゆえにコンセプトだとか、文脈だとか作品以外の化粧で語られなければならないか?これは、詐欺口上テンプレートであり、文脈とは、思考経路でも美術史上のコンテキストでもなく、美術館に収められてあること、美術オークション会場やカタログに出品、掲載されてある事実をしか意味してはいない。エウリアンの貸店舗画廊に置かれれば必要となるであろう客引きから説得、色仕掛などのセールストークの一切と全く等質な引力、解説、語り、高尚なセンス、成功者の趣味の良さ褒め上げが、そこには設えられてある。同意することを強制する非暴力的で見えない銃口が頭に押し付けられているにも拘らず、カモは雰囲気に呑まれて抵抗する術がない。エウリアンの商品をサザビーズかクリスティーズのカタログに掲載するか、ルーブルかオルセーの企画展で展示してみせるがよい。鑑定士や批評家は簡単に見抜くであろう。ならばそこにジェフ・クーンズのサインを入れてみるがよい。
返信する
014 2026/06/15(月) 19:14:00 ID:xBf5Qq7dLU
>>13 芸術とはサインであり、展示掲載場所である。
芸術とは難攻不落の要塞を固める門番衛士による後付けの通行許可証であり、この要塞を取り巻く城下には、城塞に入れなかった職人たちの工芸エンタメ城下町が広がり、表現形式を実際に創造してきた。
城塞と城下町とは繋がりがあるようでない。城下町職人は一切城塞の恩恵など被ってはいない。にも拘らず城塞内には芸術家がまだ存在し、この信仰都市を存続させているのは芸術家がダライ・ラマのように襲名出現し続けているからであると信ぜられている。
とはいえラサのポタラ宮はもぬけの殻で無神論中国に接収されて博物館として賑わいを見せている。つまり芸術家は、バスキアやキース・ヘリングのように芸術大学とは関係なく路上やアウトサイダー、もしかしたら犯罪刑務所からでも生まれてくる。
芸術暴力論でもまだ甘く、芸術組織犯罪論こそが書かれなくてはなるまい。
返信する
015 2026/06/18(木) 12:02:21 ID:ywm3McgGR.
単なるイカサマ錬金術の組織犯罪であることがバレて芸術解体死亡宣告後の社会はどんな景色か?
元来人間は吐き出さずにはおれぬ表現体である。よってカラオケみたいになるだろう。何で表現するかは人それぞれ。表現発散サービスもしくは自分自身で勝手に表現娯楽を趣味にする健全な社会になるだろう。
返信する
016 2026/06/21(日) 22:42:20 ID:9.BbWOIVFo
たまたま表現したいものとそれを受取りたいものとか出会えれば幸福というものである。それで構わなくないか?それが自然で、それ以外がかなり無理した搾取構造や詐欺構造の産物に過ぎなかっただけ。不要であるばかりでなく有害無益であったわけさね。芸術の粋とは、同好の士の集い三昧に耽るところに如かず。数寄をこそ芸術と呼ぶべけれ。
返信する
017 2026/06/22(月) 00:01:30 ID:FVzwYeUHvI
芸術の発明にはもう一つの流れがある。
ある概念の可視化、可感化にこそ、初期芸術の発明動機があった。それは先史時代までさかのぼれるものだ。
この技術者を芸術家と呼び、歴史時代を通して職人として育てた。そこからドロップアウト、或いは端からそこには向かわない社交の遊芸が数寄を形成した。
数寄は相伝せず一代限りにして縁である。
返信する
018 2026/06/22(月) 09:05:53 ID:FVzwYeUHvI
>>16は、芸術をパーソナルなもの、親密で私的で、精神的なものだと考える立場。
>>17は、逆に、芸術を社会的文化的なシンボル操作、非言語コミニュケーションの記号制度体系だと考える立場を代表する。
現代アートは、制度芸術論であるから、後者の遺産の上に遺産を食いつぶしながら無意味化を換金する極めて詐欺性の高いデマ生成の正体を露呈し、その暴力性や犯罪性を隠せなくなったわけだが、
>>16も人質にとり、奥深い思想やコンセプト、精神性がマネタイズされているからこちらこそがオーソライズされた正真正銘の本物なのだと偽るのだからたちが悪い。
返信する
019 2026/06/25(木) 17:40:20 ID:CGzF3/0ZrY
020 2026/06/25(木) 18:30:35 ID:CGzF3/0ZrY
そもそもが表現の妙にハマり、あれこれいじって己の琴線に響かせて遊ぶことが、表出の原点であり、
>>5の泥団子の例はこれを象徴する没頭、耽溺なのだ。
何か別に表現したい物があるわけではない。
表れいでたるものの形、音、声、姿、動き、そのものがゴールであり、シニフィエなどないシニフィアンの戯れが全てなのだ。
面白いね、綺麗だね、見事だね、と、近づいてきて共に響きを堪能する同好の士が現れて遊びが広がるまでで十分愉しい。
>>16 それが出来るならこいつを表現して見せてはくれないか?と、可視化可感化能力に目をつけられて利用され始めることを回避できなかったのは、表出にとってある意味残念なことであったのかも知れない。
>>17である。
だが、それゆえにこそ我々が今日芸術と一括りにする様々な表現行為の成果物が素晴らしい完成度で遺存しているのである。
こうした営みが過度に宗教に依存してきたから西洋芸術は、近代に入るやモチーフを失い、還るべき場所を見失い、迷走し始めた。
あれこれ表出の新機軸を創造して見せることが、任務なのではないかと勘違いし、無理して、絞り出すように愉しめぬ工夫の創意、奇抜、「そう来たか」を競う苦行に堕ちた。ここまでが19世紀から20世紀前半に起きた芸術という名に呪われたレースである。
返信する
021 2026/06/25(木) 20:40:58 ID:7k3zDf3C2E

芸術は代替宗教である
文学部、美大のメンヘラ率を見たまえ
宗教に走る勇気のない若造が、哲学や芸術に走る。看板が違うだけで、やってる事の大部分は共通しとる
返信する
022 2026/06/25(木) 21:31:50 ID:CGzF3/0ZrY
美もまたプラトニズムにおける数学のようなものとして取り組むことができると思いきや、美学は早々にそれを諦めてしまった。
可視化可感化のテクニック彫琢や構造的調和発見の設計理論を補助的に要した頃の工学的錯覚であった。
美が数学的であるとしても余りに単調で情趣的な深みに欠ける退屈さゆえ、表出にとっては添え物、おまけに過ぎないことでケリがついた。芸術は美学美術とは袂を分かち、晴れて「芸術」が誕生したのだ。然しながらそれも束の間、モチーフやコンセプトを失い表現の創造に向かいつつ飽和して、空中分解して果てた。
よく言われることであるけれども、
芸術の本質は「職人技による美の造形」から、「何を提案するかというコンセプト(概念)」へと移行した。ここではまだ、「何をモチーフにするか」「どういう思想を提示するか」という強い骨組み(コンセプト)が生きていた。
この説明には大嘘である。
その時点でコンセプトなど崩壊していたのだ。それはコンセプトではなく、機知を装う屁理屈に過ぎない。
彼らが表明したのは無意味さや空洞、コンセプト不在なれどねじ伏せる制度的構造即ち暴力の存在だ。
返信する
023 2026/06/25(木) 21:55:09 ID:7k3zDf3C2E

芸術は代替宗教でもある
宗教に走る勇気のない若造にとって、体のいい逃げ道として機能してきた。であればこそ、人生の敗者や落伍者に刺さるメッセージを織り交ぜることがミソなのだ
返信する
024 2026/06/26(金) 11:17:10 ID:wlA1rdYmuo
宗教のみならず、王権や大富豪、領主貴族との浅からぬ関係を取り結ぶ事で可視化、可感化の要求に応える従僕ポジションで技を磨いてきた来歴こそが、西洋美術の性格を規定し、脫宗教化、王政崩壊、民主化と産業革命が、その後の芸術の成立とパトロネージュなき自走の資金源を産業革資本家と近代国家という二つの金づる、後ろ盾に定めたカツアゲ路線を歩む姿を決定づけることとなった。美術館の誕生と芸術大学の誕生、オークション・ハウスの誕生は同時、軌一である。
返信する
025 2026/06/26(金) 12:32:34 ID:wlA1rdYmuo
芸術誕生の百年は下記のごとし。
1744
サザビーズ創業
1766
クリスティーズ創業
1793
ルーヴル美術館公開
1800年代
国立美術館の普及
1810〜1900
近代大学制度と芸術教育の統合
19世紀後半
芸術家という職業の制度化完成
なぜオークションハウスが先行したかというと封建的貴族層が没落したからである。
その没落の引き金は植民地主義である。
植民地主義→市民革命→産業革命という流れのなかで近代芸術が誕生し、美学や美術と分岐し、迷走し始めたということになる。
返信する
026 2026/06/26(金) 12:45:58 ID:wlA1rdYmuo
商業革命11世紀〜
↓
植民地主義16世紀〜
↓
没落貴族発生(土地本位制封建主義の揺らぎ)
↓
■オークションハウス(家産の資産化)18世紀中葉
〜
↓
市民革命(王侯貴族層の政治的敗北)17世紀〜19世紀
↓
王権・教会の権威低下(大衆化)18世紀〜
↓
■ルーヴル美術館1793年〜
↓
産業革命18世紀後半〜
↓
資本家台頭19世紀〜
↓
■芸術大学19世紀〜
↓
■近代芸術成立19世紀〜
返信する
027 2026/06/26(金) 20:45:20 ID:XP/cb0tErg

芸術家というカテゴリーではあまり括られないものの、池田大作は1970〜2010年頃に国内外で活躍した名だたる芸術パフォーマーの1人である
ピカソやミロの絵を集めた美術館も建てたくらいなので、中途半端な知名度の画家より芸術を通じた影響力が大きい
小説、詩、写真などが「代作」であったとしても、総合芸術プロデューサーとしての手腕は疑いようがない。センスの悪さで歴代屈指とも言える大川隆法と比べると、その力量が際立つ
返信する
028 2026/06/26(金) 20:51:28 ID:XP/cb0tErg

「非一神教的な人間主義路線を往く、仏法哲学者・詩人」というセルフブランディングも功を奏した。宗教的な要素を骨抜きにしただけの、ありふれた浅薄なヒューマニズム思想とも違う。
海外でも、その方向で一定の評価を得ている。
日本国内では、「勲章好きの俗物」といった冷めた見方がもっぱらだが、(漫画・ゲームを除く)芸術活動を通じて、池田大作ほど国内外に影響を及ぼした人物がどれだけいよう?
その点を公平に評価するならば、彼もまた歴史上の偉人候補の1人であり、闇金の取立て部長からノーベル賞有力候補(CNN予測)にまで登り詰めた、おそらく世界で唯一の傑物でもある
返信する
029 2026/06/26(金) 21:22:28 ID:wlA1rdYmuo
近代以降は
よくわからない表現形式の多型進化
ロマン主義、印象派、ポスト印象派、点描主義、アール・ヌーヴォー、表現主義、キュビスム、フォービズム、アールデコ、ダダ、超現実主義、シュールレアリスム、抽象表現主義、ポップアート、ネオ・ダダ、ミニマルアート、ストリートアート、インスタレーション、ポストモダン以降は名前がない。
チームラボ
一応はダダから出たマルセル・デュシャンによるヤケ糞1913~1917年
21世紀の今、いまだに存続していること自体が不思議である。
返信する
030 2026/06/26(金) 22:47:08 ID:WmVnzwyyRc

「池田大作」と聞いて、脊髄反射のままに拒絶反応を起こす人間はやや浅い
何故ならば、池田大作こそがおそらくは日本人に最も欠けているであろう精神を体現し、芸術・哲学の開かれたあり方を誰よりも示した人物だからである。知育偏重や印象論に凝り固まった人間には、それが理解できない
返信する
031 2026/06/26(金) 22:53:23 ID:WmVnzwyyRc
032 2026/06/26(金) 23:16:15 ID:wlA1rdYmuo
資本主義に抱きついた芸術が、資本主義からは見向きもされない姿にこそ今日の芸術の苦しさがあり、常に目が泳いで金満金蔓を探探してしまうさもしさが、公金や、成金へと吸い寄せられて、金の匂いが立ち込める世界に居場所を確保せねばならぬ焦りと相まって、犯罪者と同じ行動パタンを取る輩へと芸術家の身をやつさせる。
返信する
033 2026/06/27(土) 19:37:06 ID:xuVym5NENY
>>32 つまり、長年に渡り権力や権威に寄生しすぎた芸術は、金など必要でもない癖に、金を湯水の如く注ぎ込まれることに慣れすぎて、金の亡者となった挙句に金そのものの化身となったカネゴンのようなものだ。ゼロから金を捻り出す現代の錬金術を身に着けたつもりなのかも知れぬが、何のことはない、金の使い道に事欠く金持ちを騙して金をふんだくる組織的な闇バイトグループと異ならない。金余りの時勢に棲息する金食い虫なのだが、本家カネゴンもインターネットカネゴンなる暗号通貨みたいなものまで喰らうくらいだから、NFT時代にも生き残れると思い込んでいるようだ。
返信する
034 2026/06/27(土) 21:13:59 ID:xuVym5NENY
[YouTubeで再生]

貨幣とはそもそも褒美であるから、芸術家は、褒美に値する何かを成し遂げねばならないはずなのであったが、近代以降は、褒美を出すものが消えたから、誰からも褒美を貰えぬ極貧=芸術家が定番となった。貴族や武家宜しく近代とともに没落したのである。本来であれば、帰農するか商業に転身専心すべきところ、官僚や士業、学問で身を立てるという権力寄りのポジションを狙い、総理公認さなえトークン的な詐欺でがっぽり稼ごうという邪が手を変え品を変えて世間の目を眩ませる芸術を捏造した。学問として、また、公共美術館や国立劇場という箱を後ろ盾にありもしない芸術を転がし始めた。裏では国家が加担しているのだ。
返信する
035 2026/06/27(土) 21:54:03 ID:xuVym5NENY
[YouTubeで再生]

芸術家本人がカネゴンなのではなく、画商がカネゴンなのでもない。制度が、システムがカネゴンを徘徊させるのだ。芸術家は、このカネゴンを出現させる手伝いをしている。
返信する
036 2026/06/29(月) 06:44:10 ID:OUh..2OJNc
037 2026/06/29(月) 07:04:29 ID:OUh..2OJNc
038 2026/06/29(月) 07:39:17 ID:OUh..2OJNc
039 2026/06/29(月) 09:14:23 ID:OUh..2OJNc
041 2026/06/29(月) 09:22:31 ID:OUh..2OJNc
042 2026/06/29(月) 09:25:04 ID:OUh..2OJNc
043 2026/06/29(月) 10:10:36 ID:OUh..2OJNc
誰が描いたかは関係ない(ダ・ヴィンチ、マーガレット•キーン、さいとうたかお、本宮ひろ志)
→誰でなくても構わない(バンクシー、ミスター・ブレインウォッシュ)
→誰も描いてなくても構わない(今ここ。生成AI)
返信する
044 2026/07/05(日) 16:13:13 ID:.UsHEmB2cI

芸術という名詞を捨てよ。
表出、数寄、風流という名に改めよ。
さすれば、近代のほとんどのインチキ詐欺騒動は霧消しよう。
美術館も芸術大学も不要なり。
表出、数寄は、ディレッタンティズ厶で構わぬのであり、好悪抜きには成立できぬ趣味人の嗜み、嗜好品であらねばならん。
センスの高さはそれでなくては磨かれぬ。
パトロンにならず、川喜田半泥子たれ。
豪商自ら美を捏ねるという意味では、本阿弥光悦は正統派日本流の数寄、風流や。
パトロネージュに甘んじず、自ら絵筆を採り土に向き合い美を捏ねよ。
芸術とやらを購う無粋に堕すことなかれ。武野紹鴎、利休、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、青木木米、尾形光琳、酒井抱一、柳沢吉里、徳川頼宣、細川忠利、細川忠興、松平定信………
AIがどうしたという次元の低い話も吹っ飛び、ひたすら風趣を愛で、手ずから美を生み出す粋に心遊ばせるならぱ自ずから耽美、雅趣礼讃の境に憩う至芸至美の真髄に達するであろう。
返信する
045 2026/07/05(日) 17:54:57 ID:T9eW5ci3Kw
>>44 ただの厨二病
10代のメンヘラ学生よりマシとはいえ、措辞や語彙のセンスが少しも円熟に達しておらず、却って貧相だ
文章ヘタな弁護士が書くチグハグな通達文のようでいながら、神聖だ芸術だとほざくから厨二臭くなるんよ。美意識以前に、恥の意識ってモンが欠ける
返信する
046 2026/07/05(日) 18:37:27 ID:T9eW5ci3Kw

「日本の国主」という大逸れたセルフイメージを抱きながら、厨二病呼ばわりされなかった池田大作はセンスがいい。
どっかの誰かさんとは違い、膨大な著作や文章であれだけアジっていた割には、不思議と厨二臭が薄いのだ。※「法悟空」というペンネームは別として
格調高い戦前期の文章表現に慣れ親しんでいた世代であり、手塚治虫以降の漫画・アニメに影響される前の世代であったがゆえだろう。
返信する
047 2026/07/05(日) 18:43:49 ID:T9eW5ci3Kw
世界のイケダ博士と比べるに、現代人は随分と軽薄であり、言葉も見すぼらしくキッチュである
戦争体験が必要とは言わんが、死を身近に感じる環境に身を置かねば、ヒトは自ずと生成AIモドキの空っぽな言語マシーンと化すのかも知れん
返信する
048 2026/07/05(日) 19:44:44 ID:.UsHEmB2cI

まこと、造形したり、描画したり奏でたりする能力には価値がある。創造だからである。その価値を認める仕組みは世の中にあってしかるべきである。但しそれが西洋近代芸術のようであるべきだとは言えないし、近代西洋芸術のようでしかありえないとも言えない。ならばどんなあり方が適切なのかについて、近代西洋芸術以降に真剣に考えた形跡がないことが問題である。本当の原点に戻るなら、芸術とは、言葉を語れず歌も歌えない動物たちがこの地上の奇跡を喜びはしゃぐ姿から始めなければならない。どうやってどんな身体表現で嬉しさを表すのか?幸い人には様々な方法がある。表せるのは喜びだけではない。ならば何を表現してきたの?表現できるの?
ただそれを芸術とは呼びたくはない。一番近い言葉なら生命であろうか。
返信する
049 2026/07/05(日) 20:02:18 ID:kSI/lILrjM
> 一番近い言葉なら生命であろうか。
二番煎じのパクリ乙
生命うんたらってのは、池田大作が好きな言い回し
芸術家のやる事なす事言う事は、全て池田先生の手のひらの上なんのよ
返信する
050 2026/07/05(日) 22:30:58 ID:.UsHEmB2cI
気韻生動
岡倉天心もこの概念を重要視し、日本美術の近代化において「形を描くのではなく、生命を描け」と弟子たちに教えの根幹として説いた。
ここに言う気韻とは、
この世界に満ちる生の気(の響き)がその作品を契機に引き寄せられ、降り籠り、躍動を始めるとするある種汎神論的な発生の神秘に類する現象を見ているのである。
東洋的な「芸術」とはそうしたものであった。
神を降ろす技、命を生み出す技としての「芸術」である。
返信する
051 2026/07/06(月) 09:27:02 ID:3XCZYcpiu2

バイブレーションの懐胎、胎動、産声。
生命を吹き込み息吹かせること、そのバイブレーションを受け取り、感応すること。
胎動までは作家の手の内、産声を上げてからは共有されたバイブレーションの波紋だ。
これこそが本来のパブリックアートなのではないのか?
芸術を拝む対象にしてしまった近代美術館の構造的偽神殿を解体しなければならない。
返信する
052 2026/07/06(月) 16:37:19 ID:7TUtyma1G6
芸術ってんなら芸と術が無いとな
アートは芸も術も必須じゃ無いけど
返信する
053 2026/07/07(火) 11:02:15 ID:eYHULoLdB2

気韻生動の東洋的「いのちの芸術」の対極に育ってしまった『芸術』を拝む対象にしてしまった「近代美術館の構造的偽神殿の成立史」を語るとなると長くなる。
その東洋とても、西欧に毒されては、あたかも秘仏御開帳のごとく礼拝する儀式行為に擬えて『芸術』を扱うに至るのであるから、嘆かわしくも愚かなことである。
返信する
054 2026/07/07(火) 17:04:39 ID:eYHULoLdB2
055 2026/07/08(水) 08:03:27 ID:MpOKI1nCq6
056 2026/07/08(水) 10:14:21 ID:MpOKI1nCq6
>>55 それぞれ腹に一物ある食わせもの達による「勅命」(天皇の命令)を捏造しての強制的な秘仏開帳……
ここで言いたいのは、日本美術の近代の幕開けに「国家権力」が不可欠であった事実だ。
「芸術」は暴力だという本質は「権力」のことである。神殿ではなく「偽」神殿である理由もまたここにある。
返信する
057 2026/07/09(木) 10:22:31 ID:o9wxXXHghI
>>56 日本の近代美術史において、国立美術館は戦前までは存在してはいなかった。明治時代から産業博覧会の後を継いだ美術展覧会は開催されてきたが、ついぞ国立美術館は建設されなかったのである。ここに芸術という権力の秘密がある。欧米では国立美術館は、ナショナリズムや帝国主義と結びついて展開し、ナチス・ドイツなどは古典写実主義以外の芸術を退廃芸術として排斥した。ハウス・デア・ドイツェン・クンスト(1937)がその中心拠点美術館であり、Führermuseum(総統美術館)計画は遂行できずに終わった。
返信する
059 2026/07/12(日) 20:37:46 ID:2oERsIxLis
>>57 戦前の日本に国立美術館(偽神殿)が建てられなかったのはなぜだろう?
戦前の日本には皇室を中心とした国家神道が全国津々浦々を統べる天皇国家体制であったから「視線を管理する装置」、「拝む装置」の必要に迫られなかっただけではないだろう。国立の帝室博物館(1900年〜前身が帝国博物館1989年)には皇室への献上品としての美術コレクションは公開はされていたが、美術館ではなかった。
芸術とは国民国家には限定されぬ基軸芸術なのであり、芸術覇権なのである。
その覇権はヨーロッパの中国と称されるフランスが発祥であり、17世紀絶対王政ブルボン朝のルイ14世の創案に源流を遡る。芸術の都パリの原点はフランス革命前の絶対王政期にあったのだ。
返信する
060 2026/07/12(日) 21:04:42 ID:2oERsIxLis
先立つ16世紀、イタリアルネサンスの曙光はヴァロア朝フランソワ1世のダ・ヴィンチ招聘によりパリに最初の陽が差し込んだ。だがそれはやがて自由な商人文化の気を削がれ、宮廷マニエリスムへと萎む。
他方カトリック教皇庁本拠地イタリアでは、宗教改革の余波への対抗でアンチロゴスのイメージ戦略を計り、ルネサンスからバロックへと、より鮮烈で劇的、イメージ喚起的な破調の美への転換が起きていた。
ヴァロア朝の後を襲ったブルボン朝は、再びイタリアバロックの華を摘みに出掛ける。ベルニーニという華であるが、喧嘩別れで逃げ帰られてしまう。
しかし、フランスは既にヨーロッパの中国に変身を遂げつつあり、中華思想的な誇りを育て、イタリアと袂を分かっても絶対王政に相応しい独自の芸術戦略を磨く段階にいたのである。
ブルボン王朝の古典主義、フランス革命後の新古典主義は、共に一貫して「ロゴスと普遍」をテーマにしていたようだ。擬ルネサンスであり続けたのだとも言い換えられよう。新古典主義はアンピール様式を経て反動としてのロマン主義をもたらすが、これも折衷して飲み込む自律的な芸術運動が開始されてモダンアートに接続するのだ。ここに来てイデア、ロゴス、芸術が美によって束ねられ、基軸アート、芸術覇権はパリにおいて確立され、そして、ルネサンスの種を保持してきたイスラーム文明が、サウジのムハンマドによる普遍価値の象徴《サルバトール・ムンディ》奪還というかたちで、その歴史へ再び姿を現した意味もまた理解せられるのである。
返信する
061 2026/07/13(月) 05:35:19 ID:IUINSsdka6
革命期フランスではロゴスの新古典派に対して宮廷ロココが退廃芸術とみなされて排斥された。古典主義はロゴスを通して普遍的なイデアに通じるという構図が重要である。
ナチス・ドイツはもやはり古典主義に依ったが、ナショナリズムやアーリア民族英雄主義に留まり、社会主義ソビエトは、古典主義ではなく社会主義リアリズムに依って抽象表現主義や印象派以降の芸術表現を排斥した点が普遍主義からの距離、即ちイデアという普遍主義根拠を持てぬ賊軍に堕ちる種を宿していたと言えよう。
返信する
062 2026/07/13(月) 13:02:44 ID:IUINSsdka6
元はといえば、プラトニズム+キリスト教→新プラトニズムに基礎付けられたのがヨーロッパ神学ではあったのだ。
ところが十字軍→イスラームに保存されていたアリストテレス哲学の逆輸入→ルネサンス→新プラトニズムの再生と神学的動揺→宗教改革となったものだからフランスでは古典主義&デカルトの機械論と大陸合理主義の形成→絶対王政理性主義の萌芽→啓蒙思想→フランス革命と玉突き的に歴史が動く。
片方でイギリスにおいてはローマ辺境の非世襲的部族的実力主義の伝統に基礎を置く議会をもつがゆえにカトリックからの離反がもたらした国教会主導の政教一致絶対王政の目論見が市民革命で流産した。それがアメリカ独立戦争を経てフランス革命へと連鎖したというのが、フランス革命前史である。
つまり、何であれほとんどの原理、主義といったものはその成功ゆえに滅びるという歴史法則をここに見るわけである。
返信する
063 2026/07/13(月) 16:52:27 ID:IUINSsdka6
日本の国立美術館創設は1952年、サンフランシスコ講和条約の年であるが、皇室コレクションの公開はトーハクであり、美術館創設とは直接的な関係がない。
世界は片隅の日本の状況を余所にこうして芸術覇権を築き、国際社会復帰というなら国立美術館も……という大きな流れの中にある。
芸術という権力は、一国家内には留まらない。それは近代文明覇権なのであり、なぜフランス?なぜパリ?の答えを述べるなら、古代ギリシアからキリスト教、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を語らねばならない。
返信する
064 2026/07/13(月) 17:01:53 ID:IUINSsdka6
本来はイデアからもロゴスからも遠い「芸術」が、美によってイデアの一角を占めることになり、ロゴスも奉仕する形で統合を果たし、主観的感情や宗教から独立した普遍性を獲得することで「芸術」の覇権、基軸アートというものが成立することになった。
フランスはロゴスにこだわっただけなんだけれど、「芸術」における美がイディアなものだから、それが幸いして普遍性を獲得し、「芸術覇権」というものを確立する僥倖に浴したというわけである。
美はイデアなのに、美というイデアを詰める学としての美学はロゴスによる美の追跡実現工法を早々に諦めてしまった。「芸術」が美から離反(逃亡)して以降は、普遍を語れぬ立場なのに、樹立された「芸術覇権」の上に胡座をかいて基軸アート認証を盾に暴力を振るうだけのヤクザなゴロツキに堕したのが現状である。
返信する
065 2026/07/13(月) 17:10:25 ID:IUINSsdka6
その異常事態を招いたのがカントだ。
カントは現代アートをおかしなものにした戦犯だと言えるのかも知れない。
カントに言わせれば、美はイデアではなく、主観的で感性的なものである。その主観的判断には「普遍性要求」が伴う。美には概念的規則がない。美を生み出す方法を理論化したり、法則化したりすることはできない。そこで「天才」が登場する。「天才」とは、「芸術に規則を与える才能」である。天才は規則に従うのではなく、作品によって後から規範となる。しかし天才自身も、自分の創作原理を説明できない。
つまり、美の創造は再現可能なロゴスではなく、自然が天才を通して働く営みとされる。しかも天才を投入することで規則やルールまでもを天才に委託してしまったのだ。なんと便利な天才。芸術は天才の独壇場で、凡夫には触ることのできない特権的で特殊な禁足地だ。
返信する
066 2026/07/13(月) 20:48:13 ID:IUINSsdka6
カントが美をイデアならぬ主観としたことで、結局は芸術の美からの完全なる剥離をもたらすことにもなった。何故なら主観の牢獄では実務家たる天才芸術家といえども実は手も足も出せないからである。遂には主観だけに全権委任された「天才」達の悲鳴叫喚が避けられず脱走が図られてしまった。かくて現代アートは、一切美を相手にはしていない。
美の何たるかを語れぬカントは、天才を美の司祭として導入する他なかったが、その天才とやらは美を担えなかった。或いは、主観は独房に放り出されて何もできなくなった。指一本も動かせない芸術の主観牢獄への拘禁刑がカントの嘘のせいで生まれ、芸術家たちをギリギリと苦しめたのだ。
返信する
067 2026/07/17(金) 16:12:37 ID:iCMAQ.8nMU
美は突然現れ、たまに我々のなかの誰かが模倣出現させる事があるけれど、ロゴスでは追えない。
美を追うロゴスが見つからない。ロゴスで美は追えないから、実践的に見つけ、捕まえるものである。常人には共有不可能なそれができる才能を天才と呼べばいいだろう、そうカントは考えた。
カントは美をロゴスで追う困難回避に、美はイデアではなく主観だと飛躍し、天才というブラックボックスを導入してケツをまくって逃げた。
それだけならまだしも、天才の一人相撲も回避せねばと天才とやらは万人にこれを美だと認めろと普遍化要求を人々に突きつけてくるというのだ。美を勝手に恣意的操作可能な安いものに貶めて、規則を設定できる特別な権力を天才に付与した戦犯がカント。
基軸アートや芸術覇権の元凶はカントにあり。
カントは最初に音を上げて匙を投げた敗北者に過ぎす、敗北の後に屁理屈をこねた先駆者だというだけ。カントは哲学界のマルセル・デュシャンだったわけだ。
デュシャンも負けは認めてはいない。二人とも負けて、誰にも負けたと悟られないように逃げただけなのだ。それ程に美は手強いということや。大半の芸術家は逃げ出す。哲学者もや。敗者のくせに美は天才が創設可能なルールに過ぎないと二人とも考えた。片方は屁理屈家、片方は実践者という違い以上のものはない。天才などというものも芸術界にはいない。美の追及から逃げ出した天才が芸術の規則やルールを敷けるわけは最初からなかった。
システムや制度、覇権が基軸アートを決めるのである。
返信する
068 2026/07/17(金) 19:54:28 ID:iCMAQ.8nMU
実はこれはカントオリジナルではなく、イギリス経験論の、デビッド•ヒュームの受け売りをカントが展開したものに過ぎない。ヒュームは寸止めで主観とまでは言わなかった。趣味だと言った。余計な天才を持ち込んたり、普遍性要求という傲慢をかましたのがカントである。
普遍性要求は認証覇権争いが回収するしかなかったのが現実。カントは普遍性要求などという分かったような分からないことを持ち出さざるを得なかった。普遍性要求に似たものは芸術覇権という権力でしかなかった。
とにかくカントには美がわからなかった。天才という助け舟を出して、その普遍性に関しては、普遍性要求を措定して布教宣伝と共感だけで広がるものとした。以上。
カントは説明から降りたことで芸術論に負けた。そして意識的か否かを問わずそのカントと同じ轍を全ての芸術関係者が踏んで今日に至るのだから、敗者の道をゾロゾロ歩んでいるのが現代アートだ。
美なくして普遍なしなのだから、本来ならば現代アートは普遍不在を認めなくてはならない。
つまり現代アートは芸術ではない。潔くそれを認めなくてはならない。
美という普遍的根拠を放棄した以上、誰かが「これが普遍である」と認証しなければならなくなる。
そこで誕生したのが芸術覇権であり、基軸アートである。
返信する
069 2026/07/18(土) 12:52:04 ID:rqTsJ7yIVE
現代アートから美が剥離して問いとか批判とか認識とかブツブツ言いながら文脈自己循環となり、基軸アートにつながる。カントが理論的に敗退した後、デュシャンが実践的に敗退して美からの剥離に逃げるんだな。
酷い言い方を許してもらうなら、カントが言うように、実践局面でせめて天才芸術家による普遍要求による美の再生産サイクルが回ればまだしも、そうはならず、主観に籠る拘禁刑に等しい美からの逃走(脱走?)を決行し、規格ルールをでっち上げて覇権と基軸アート宣伝で暴力的に普遍要求だけをばら撒いたのが現代アート。
もはやそれはどうでも良い。カントの犯罪である美を主観の牢獄に閉じ込めたことが実践家の苦悩、苦悶を積み増し、思い余っての脱走ゆえに美は芸術から永遠に遠ざけられることになったからだ。
普遍なく美なき芸術とは?それは芸術ではなく芸術規格。ISOみたいな標準規格であり、基軸アートを握った芸術覇権が認証する適合品だ。芸術とは美も意味も価値もかなぐり捨てて認証による価格をインサイダーが自由に操作するマネロン媒体である。
返信する
070 2026/07/19(日) 05:52:58 ID:xeMlKvIYPE
美の難解さを扱うなら、プラトンのイデア論が最適、最善であるのに、これを叩き潰した近代哲学が間違った。
芸術とは、イデアを生み出すものではなく、イデアと出会うための生成の場である。
美のイデアはロゴス(概念)、パトス(情動)、生成・形態形成という複数の経路で現実に顕現するが、芸術は特にパトスと生成に関わる。だから芸術をロゴスだけで理解しようとしたヘーゲルは十分ではなく、感性を主観に閉じ込めたカントも、美そのものを取り違えた。
プラトンは芸術を「ミメーシス(模倣)」と見て真理から遠いとしたが、むしろそのミメーシス性ゆえに、作品を手掛かりとしてイデアへ接近できる。芸術は非現実の領域だからこそ、ロゴスによる概念化の対象にもなり得る。
制作では、最初から完成した美が見えているわけではない。朧げな美の予感を頼りに、絵具・石・音・言葉などの素材と格闘する試行錯誤の中で、思いがけずイデアと出会う。その意味で、プラトンの「想起(アナムネーシス)」は哲学的対話だけでなく、素材との対話による制作論へと拡張されるべきである。
美の困難は一方向性関数だからである。
返信する
071 2026/07/19(日) 11:12:59 ID:xeMlKvIYPE
数学的・情報科学的に最も冷徹な真実は、美の構成要件が「関数」ではなく「一方向性関数」の構造を持っているからだろう。
美の「検算」は一瞬だが「逆算」ができない。美の検算は他者が行なう査読のようなものだ。
暗号理論において、「順方向の計算(検算)は一瞬でできるが、逆方向の計算(解の特定)はスーパーコンピュータを使っても不可能に近い」という性質を持つ「一方向性関数」が存在している。
美の構造はこれと完全に一致している。
検算(認知)の客観性:極限まで洗練された幾何学や数式(例:黄金比、白銀比、オイラーの等式など)を提示されたとき、私たちの脳はそれを「美しい(正しい)」と一瞬で判定(検算)できる。これはバグでも主観でもなく、論理的な正しさの確認である。
逆算(創造)の不可能性:しかし、「では、誰もが美しいと認める、これまでにない全く新しい幾何学のバランス(解)をゼロから導き出しなさい」という問いに対して、それを一発で導き出す数式(アルゴリズム)は存在しない。
返信する
072 2026/07/19(日) 18:13:27 ID:xeMlKvIYPE
芸術家とは、美の潜む居場所を知っており、探し当て方に長けた名人。
実際に美に出会ってからはそれを他者に伝えられるミメーシスに移せる表現技術者だ。芸術家の「才能」は美を知っていることではなく(知ってはいるのはもちろんだが)、探索空間を効率よく枝刈りする能力と捉えることができる。これはAI将棋が全探索ではなく、評価関数と探索戦略によって現実的な時間で強くなっているのとよく似ている。芸術家は訓練により本来ならば総当たりでしかたどり着けない美に将棋の名人のように最短でたどり着けるのだ。
直感と訓練、反復、パタン認識により、ショートカットをものにできているのが芸術家だということになり、一方向性関数であるが故に一旦たどり着いた美のミメーシスは、誰の目にも美だと伝わりやすいのである。つまり一方向性関数だから布教宣伝する制度など要らない。
返信する
073 2026/07/19(日) 20:05:23 ID:xeMlKvIYPE
カントのように主観の檻に閉じ込めた後、謎の天才を召喚し、作品が美であることを普遍化要求を振りかざして布教、宣伝する制度や仕組みなどは無用なのである。にも拘らず、現実はなぜかカントの敷いたいかがわしいレールの上をスルスルと滑り出してしまい、現代アートという怪しげな代物を産み落としてしまった。
まとめると
イデアは存在する。
イデアの顕現には複数の経路がある。
ロゴス
パトス
生成(形態形成)
芸術はパトスと生成を主経路とする。
生成はイデアを創造するのではなく、イデアとの出会いの場である。
ミメーシスとは、その出会いを他者へ伝達可能な形態へ移す行為である。芸術家は制作プロセス内で発見する。このミメーシス生成プロセスは一方向性関数構造なので、受信した万人が(恰も自然の美を前にした時に直ちに美のイデアを思い出せるように)美のイデアを想起することは容易い。ある意味コロンブスの卵である。
イデアそのものは提示できない。
したがって、その出会いはミメーシスとしてでしか他者へ伝達できない。
ゆえに芸術とはミメーシスである。
芸術家とは、その第一のミメーシスを生み、後続のミメーシスの起点となる者である。
カントは感性を主観と取り違え、ヘーゲルは生成を概念へ回収してしまった。
返信する
074 2026/07/20(月) 08:51:41 ID:T.6wV5X6bM
例えば自然が模倣でなく美のイデアを表出し、そこから美のイデアを汲み取った芸術家がある表現方法でミメーシスを制作して人々に伝えることができたとする。芸術が存在するのは自然か?ミメーシスか?
ミメーシスである。芸術とはミメーシスだ。
さて、ここで聞きたい。AIは、私の見る所、芸術ではないかも知れないが、美を制作する能はあると言える。これはミメーシスの一種なのに芸術ではないのか?どんなミメーシスが芸術なのか?
人間の中にもAIのように既存の美を学習した中から美の連想を働かせてイデアに出会うことなくミメーシスの模倣で制作する人々はおるからね。
驚くほど真の芸術家は少ないんだろう。モネやドガは芸術家であるけれども、狩野派の大半は芸術家ではない。人々が見たことのない美を提示してみせたスタンリー・キューブリックやリドリー・スコット、帝国少年も芸術家と言えるね。
世に溢れるミメーシスの『ミメーシス起点になった作家』が芸術家なのだよ。
返信する
075 2026/08/04(火) 12:37:04 ID:uz8CK.dKDk

討議、議論板でプラトンからブルトンへを解説しようとしたら、スレ主が無知を晒して恥かいたせいなのか、スレ消し逃亡してしまった。
創価でもなんでもクソレス書いてくれないと連投できないんだよな。
返信する
076 2026/08/04(火) 19:47:43 ID:uz8CK.dKDk

ヨーロッパにおける第一次世界大戦の強烈なインパクトは、理性と美への絶望を決定的にした。
西洋美術界はプラトンのイデア論的な善なる美への信奉を捨てざるを得なくなったのである。プラトニズムはなんだかんだ言ってキリスト教神学とも抱き合わされて西洋美術をルネサンス以降も支え続けてきた原理であったが、プラトニズムの欠陥はそもそもなぜ善ならざるイデアという片方を無視するのか?という真善美偏重にあった。宗教改革後も、フランス革命後も神が理性に置き換わっても真善美偏重は概ね維持されたのだが、第一次世界大戦はこれを打ち砕くに十分な心的外傷後ストレス障害をヨーロッパに与えたのである。
社会集団に及ぼす心的外傷後ストレス障害の影響はその文化や宗教の形成に大いに与るのであるが、この分野の研究は殆ど行われてはいない。日本では岸田秀止まりであるが、日本の神道成立とと火山や地震災害の関連のように時々話題にはなる。心の傷は集団的にも中々癒えないものである。
返信する
077 2026/08/05(水) 10:26:44 ID:Hj6xLplhpM

「なぜ置き換え不能なほどの崩壊が大戦で初めて起きたのか」?宗教改革の戦乱(三十年戦争など)もフランス革命の恐怖政治も、規模としては凄惨だったが、それでもヨーロッパは新しい座(理性、国民国家、進歩史観)を用意する余力を持ち続けた。大戦が違ったのは、産業化された殺戮(機関銃、毒ガス、塹壕戦)が理性・技術・進歩そのものを加害者の側に置いてしまったことだ。それまでの戦乱は「理性の外側」で起きた野蛮として処理できたが、大戦は理性と科学の産物が理性そのものを裏切って見せた。だから代わりの座を立てようにも、座を立てる主体である理性そのものが信用を失っていた。ここに、置き換えではなく崩壊が起きた固有性がある。
返信する
078 2026/08/05(水) 11:16:15 ID:Hj6xLplhpM

リスボン大地震がフランス啓蒙主義に繋がっていったのも心的外傷後ストレス障害の症状とまでは言えないまでも、心理的補償作用が働かなかったとは言えまい。ルソーによる人為への疑義にもかかわらず、依然理性への信頼だけは死守されたのが啓蒙主義であったと言える。
フランス革命は理性崇拝と自由平等博愛の普遍的価値をもたらした事で、プラトニズム的な美のイデアを延命したのだ。そのプラトニズムが破綻した後に芸術は存続し得るのか?
返信する
079 2026/08/05(水) 14:00:17 ID:Hj6xLplhpM

イデアなき芸術の救出の手立ては端からイデア無き日本、東洋発でなければなるまい。そこで私は芸術とは美のイデアにかしずく営為にあらずしてミメーシスそのものなりと訴えたい。
返信する
080 2026/08/05(水) 21:45:09 ID:Hj6xLplhpM

イデア論をかなぐり捨てるなら本来であればこの模倣論を立てて磨き上げるのが哲学者の仕事ではなかったか?
この世には芸術家というものは存在しない。芸術は分からなすぎて芸術家本人にも分からない。大抵の芸術家は芸術家ではない。誰なら分かるか?誰にも分からないというのが答え。つまり、芸術とか、芸術家という概念自体を廃止すべき。
それは今や神様とか、イデアというに等しく非存在である。別の呼称、概念に変更した方がまだしも世の中に有意義である。
候補はあり、真似という概念に基礎を置くべきであるから、✕イデア、〇ミメーシスと切り替えて、「写し」と呼ぶべき。これならトレパクの江口寿史も古塔つみも「写し」だから、OKだし、AIの著作権侵害問題も消えるだろう。所詮は「写し」なのだからだ。著作権というものを廃止し、肖像権侵害をのみ争うべきとなる。駄目な「写し」は商標誤認を誘う詐欺とかになり、ほとんどの「写し」は解放すればよいのだ。そして余計な想いや意図、コンセプト、は脇において作品の「写し」の巧拙、美醜、心への響き方、好き嫌いを自由に語ればよいだけのこと。
返信する
081 2026/08/06(木) 07:20:24 ID:eXqRAbIapw

まとめると、芸術の祭り上げはプラトニズムが元凶。イデア論ゆえにキリスト教と抱き合い、神学ともダンス、絶対王政でフランスパリがメッカになった。
リスボン大地震て神学が衰えて啓蒙主義やイギリス経験論を経由したカントによりイデア論がほぼ頭の中からは追い出せたけど天才が事実上の預言者扱いにされて三位一体化したに過ぎない。
芸術という概念がまさにここに成立。
にも拘らず二度の世界大戦で完璧にイデア論が崩壊したのが二十世紀以降。ニューヨークに覇権が移ったのではなく、芸術そのものが爆死したのだが、ゾンビが徘徊してアート市場の幻を回しているのが今現在……と総括できる。
返信する
082 2026/08/06(木) 16:03:49 ID:eXqRAbIapw

十字軍・レコンキスタ(トレド翻訳学派)
↓
アリストテレス逆輸入
↓
トマス・アクィナス(アリストテレス+新プラトン主義の総合)
↓
後期スコラ学 ─┬→ ドゥンス・スコトゥス(個体化の原理)
↓
オッカム(唯名論・神の絶対的全能性の擁護)
├──────────────┐
↓ ↓
信仰義認論(ルター) 方法論としての反普遍主義
↓ ↓
宗教改革 ベーコン(イドラ論・帰納法)
↓ ↓
ピューリタニズム(16c〜) ─┘(同時代・別水源として合流)
↓
王立協会(1660)
↓
イギリス経験論
アリストテレスが、プラトニズムから西洋美術を救済する可能性はもはやない。プラトニズムの中で切り捨てられたミメーシス=写しにこそ救いはある。イデアなき写しでも芸術は成立し、写しこそが芸術の本質であったことに覚醒を促す必要がある。これはイギリス経験論的にも支持され得る事実で、あらゆる創作活動のプロセスが、模倣に始まる現実からも明らかであるのみならず、生き物が親の真似をすることで生存し続けるける存在であることとも地続きだ。
返信する
083 2026/08/06(木) 17:10:16 ID:eXqRAbIapw

膨大な過去の先人達の蓄積に気圧されたか、いち早く傑作の予感を取り下げ、美からの逃走劇と化したのが、美術界であり、芸術だな。世界大戦は良い口実になった。PTSDですんで……勘弁してやってくだせえ。
現代アートの無様は目も当てられないが、美を切り捨てたからだと言える。同じく膨大な蓄積を拾って美の勝ち筋を再構成するに役立てたのが生成AIだと言える。人間の敗北した地点から、クリエイションを始めたのだね。
芸術を写し、ミメーシスだと割り切ればどうか?
真似をするのは当たり前。写し屋なのだからだ。
返信する
084 2026/08/06(木) 17:50:13 ID:eXqRAbIapw

世阿弥の花。 「花」(観客を打つ生きた美)は先代の花をそのまま受け継ぐことができず、演者がその都度、自らの心身を通して新たに咲かせ直さねばならない。
ひとり芸術には限らない。
「大原を継ぐ~京都市左京区」NHK小さな旅を見ながら考えた。
伝統とはミメーシスなのに、毎年しば漬けを漬けるという再現継承の最中に「ほんまもん」を現さにゃならん。イデアはミメーシスの中にしか現れん「ほんまもん」なのやないか?それは京都大原のしば漬けでも同じこと。
「美しい花がある。 花の美しさというものはない 。」(小林秀雄)美しい花という個物は、毎年美しく咲くのだ。遺伝子が写すから形相が再現されるのである。
返信する
085 2026/08/06(木) 19:49:18 ID:eXqRAbIapw

同じくNHK小さな旅「北の清流絶え間なく 北海道 後志利別川」では模倣で生きる人々が描かれていた。じいちゃんの農作業の模倣、後志利別川の模倣としての和太鼓……ミメーシスの語根ミーモス(模倣者)からミメーマが派生し、そこからからミームという造語が生まれた。人は何を写してきたか、ではなく、生き物は何を模倣してきたかが問われるべきだと思われる。親から学ぶ子は人間だけではない。「仕事が暮らし暮らしが仕事」(河井寛次郎)仕事を芸術と言い換えても成り立つであろう。
模倣する猿としての人間論が書かれなければならない。
ホモ・ミメティクス(模倣する人)
その営みの中に芸術、写しは、位置づけられる。
返信する
086 2026/08/07(金) 05:48:37 ID:3.r046lbus

中国美術思想において「写し(模写・再現)」は、単なる技術のコピーではなく、「過去の聖人の精神を継承し、宇宙の真理(道)に近づくための神聖な修行」と体系化されている。
「写し」の核心を表す4つの決定的な思想エッセンスがこちらだ。
1. 伝移模写
2. 師古人→ 師造化→ 師心源
3. 以形写神
4. 奪胎換骨
単なる写しと侮るなかれ。イデアがなくとも美は追われ、芸術は世代を越えて磨かれ続け得る。
返信する
087 2026/08/08(土) 06:14:30 ID:slW9XLuWg2

数寄や表出や風流、粋を持ち上げたけれど、それらはまだハードルが高く、どうやら本質ではなさそうだ。
本質、どうしようもない衝動は真似、模倣、ミメーシスなのではないか?
イデアがあるなし関係なく、我々は真似たがる。写したがる。それは太古以来「生存に直結してきた本能」だ。上手く写すことは生きること、生き残ることではなかったか?それが表出と呼ばれたのは、よくできた模倣への褒め言葉だ。言葉もそうして覚えたし、習慣や所作も身につけた。われわれの表出は、物真似だ。原点がそこにある。上手くできた真似は美しい。その美しさの先に美があり、祝福があり、イデアの幻がある。
返信する
088 2026/08/08(土) 13:21:09 ID:slW9XLuWg2

交換可能性は価格を生み、交換不能性は価値を生む。
『絶対』とは、形而上学的な天上概念ではなく、代替不能でかけがえのない大切な人、物、ことの一切が起源だったはずである。我々は今でもこの『絶対』を知っている。それが価値の起源であることも。
だが、それらは脆く儚く、失われてしまい易い。この現実を無常観で補償したのが東洋であり、日本。
一方、無常観を養うことなく神やイデアを立てたのが、西欧社会だと言えるのだろう。
返信する
089 2026/08/08(土) 14:08:54 ID:WEghvzi9E2
おい、名誉白人のポチ犬野郎
いつになったら、人間はAIで発狂するんだ?
主体性喪失で、人間の精神が崩壊するって妄想をしれっとキャンセルしたんか?
返信する
090 2026/08/08(土) 17:52:00 ID:slW9XLuWg2
世界大戦でそのイデアまでをも失ったヨーロッパは、相対主義と現代アートを生み出さざるを得なかった。
現代アートは、交換不能性を打ち破り、ひたすら交換可能な価格で突っ走る市場を横目に、そこに救いを見たのかも知れない。価格と戯れて価値を忘れよう。商品と記号と戯れて絶対とは縁を切ろう。そんなぶざまな強がりを演じなければ幕を下ろせない西欧の絶対の文明。
ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、アド・ラインハルト、マーク・トビーらはは禅、侘び寂びに触れつつもその精神は理解できなかった。
ボードリヤールやドゥルーズは、ミメーシスの本質を掴めずシュミラークルという座興と戯れて反プラトニズムだ、ポストモダンだと騒いで終わった。
中々西洋を脱ぎ捨てるのは難儀と見える。
返信する
091 2026/08/08(土) 19:42:47 ID:DqOzV4fOww
>>90 名誉白人のポチ犬野郎は、尻尾巻いて逃げたか
口ほどにもねぇーな(笑)
ご主人様の二番煎じと、甘噛み程度の反抗をせいぜい楽しめよ
返信する
092 2026/08/08(土) 20:16:43 ID:slW9XLuWg2
[YouTubeで再生]

近代美学は「自然/現実を写す(再現)」対「内面から創造する(表現)」という二項対立を立てて、後者を格上に置いた。
だが、そもそも画家の欲望の対象自体が自然ではなく他の作品だ、という事実――つまり「創造」と呼ばれてきたものの実態は、常に既存の写しへの写し(ミメーシスのミメーシス)だったということ。
これは「無から有を生む絶対的創作者」という虚構をピンポイントで撃ち抜く一撃でもある。もし画家が本当に自然だけを見て、そこから直接何かを生み出しているなら、近代の創作者神話にも一理あったかもしれない。しかし実際の衝動の発生源が常に「先行する写し」だとすれば、系譜は最初から途切れずに連鎖している――写し屋は写し屋の写しに欲情し、それをまた写す。ここに「起源」はなく、あるのは連鎖だけ。
無名の誰かの創作が連鎖する事例など数多ある。liminal spaceなどである。
「画家は自然を見て描きたくなるのではなく作品を見て描きたくなるのである」という名言があるが、まさにそれ。
返信する
093 2026/08/09(日) 09:08:18 ID:hO7TFXntpM
>>92 https://vt.tiktok.com/ZS4p5nWV4... 「美ではないが同じ経路を辿るもの」としての リミナルスペース系の考察
美ならずとも同型のミメーシス連鎖を生むもの。
リミナルスペース/バックルームズは美(快・調和)ではないが、「模倣を導く確かな手応え」という点で美と同じ機能的挙動を示す。
これらの本質は「そこは目的地ではない」「通過する/した/出なければならない場所」という違和と不穏を醸す構造そのものだ。過渡期(時代が次の形に定まっていない宙吊り感)の空間的な形象化でもある。
ドリームコア/ウィアードコアになると視覚言語は隣接するが構造は対をなす。これらは目的地の不穏さの視覚記号(グリッチ・彩度のズレ等)をカタログ的に組み合わせたものだが、映像トリップの駄作でLSDなり損ねと断じざるを得ない。
数多くの模倣を連鎖させたにも関わらずバックルームズは芸術家不在のムーブメントだ。匿名の起点が本人の確信も自覚もないまま共同体全体に即座に開かれ、模倣が加速した。作家性を可視化する「職人型」に対し、作家性を消すことで拡散する「集合型」という、「イデア」伝播の第二の型が確認された点は興味深い。
返信する
094 2026/08/09(日) 09:18:40 ID:hO7TFXntpM

プラトンのイデア論の欠陥は、イデアが真善美に限定される根拠がないことである。
イデアの内容と機能の分離——美・崇高のイデアと不気味・違和感満載の通過点(リミナル)は、内容としてはな反対物だが、「模倣を導く確かな手応え」という機能触媒としては同一の挙動を引き起こす。体系の頂点にあるべきは「美」そのものというより、美をその一発現形態として含む、より中立的な「確かな手応え」としてのネガイデアが存在する可能性が示唆される。遠隔地へのデザインの模倣伝播が著しく観察される縄文デザインもまた必ずしも美ゆえと限る必要もないのかも知れない。
返信する
095 2026/08/09(日) 09:35:11 ID:hO7TFXntpM

縄文土器・真葛焼とアール・ヌーヴォーの関係は二層で説明される。深層(アナムネーシスの底流)では、器に具象・有機的生命を宿らせる様式は日本列島に限局されず、ペルー・モチェ文化、インダス、アステカの人面・具象装飾土器など、時代・地理を超えて独立に現れる並行現象である。表層(実証可能な歴史的伝播)では、19世紀ジャポニスムを通じ真葛焼が実際にヨーロッパへ伝播した事実が速やかなる受容と反響の末にアール・ヌーヴォーに影響を与えた事実がある。両者が稀に一致した例が真葛焼であり、「イデアは独立に想起され得る」ことと「美が伝播すること速やかなる」ことを同時に示す。
返信する
096 2026/08/09(日) 10:25:09 ID:hO7TFXntpM
ファルマコン——ショートカットとしてのドラッグの危険性
向精神中毒性キノコの発見・儀礼化も、美と同じ「発見→模倣→伝播」の経路を辿ることが観察される。これは唯物論的な反証(脳の報酬系だけで説明できるのではないか)を招きうる一方、プラトン自身が『パイドロス』のファルマコン概念(薬にして毒)や神的狂気の議論、エレウシス秘儀のキュケオン(麦角菌由来説あり)を通じて、この両義性——同じ通路が啓示にも破滅にもなること——を既に見抜いていたのは見逃せない。
ドラッグ・LSDによる手応えは、本物の一方向性関数(訓練・制約との格闘・総当たりなき到達)を経ずに、化学的介入によってイデアに似た感覚だけを近道で得ようとする、偽の到達である。この近道には二重の危うさがある。第一に、化学的に誘発された手応えが、本物の想起と体験として区別できないほど強烈であるがゆえに、当人がそれを本物の到達と誤認しやすいこと。第二に、この近道に依存するほど、嶮岨にして困難な一方向性関数への道——訓練・制作という遠回り——に戻る力を蝕まれ、身を持ち崩す(依存、精神的・身体的損耗、創作能力そのものの枯渇)危険を伴うことである。芸術家がしばしば酒や薬物で身体を蝕まれてきた歴史は、この偽の到達ルートが持つ破壊力の証左であり、プラトンのファルマコン概念は、イデア論の穴を塞ごうとしつつそれが身を持ち崩す芸術家像も先取りしていたことでかえって理論の破綻を示唆もしていたわけだ。
返信する
097 2026/08/10(月) 15:56:08 ID:T1Eb2NvAX.

絶対の永遠固定化と、ネガティブなものは切り捨て良きもののみをイデア化した偏向。
この二つは西洋文明原理としてギリシアローマ以来西洋を飲み込み、キリスト教と共に世界観を牛耳ってきた。アリストテレス逆輸入でもリスボン大地震でも揺るがなかったイデアは、カントによって地上化された代わりに天才と普遍化要求という偽造物で延命された挙句二度の世界大戦で無事臨終、ゾンビ化して価格のタコ踊りしかやることがない。誰かあれらを清掃除霊撤去してくれないか?という為体。では。何が芸術を救うのか?どんな未来が芸術にあるのか?いよいよその見取り図を広げるときが来たようだ。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:135 KB
有効レス数:141
削除レス数:5
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
芸術/アート掲示板に戻る 全部
次100 最新50
スレッドタイトル:芸術とは何か?
レス投稿