芸術とは何か?


▼ページ最下部
001 2026/06/13(土) 12:01:28 ID:qKA1fajGFA
芸術は、なぜ芸術なのか?
芸術だと思え、言え、信じろ、疑うなという強制力ゆえに芸術なのだよ。
完全なる暴力、不同意暴行なのだよ。

返信する

※省略されてます すべて表示...
054 2026/07/07(火) 17:04:39 ID:eYHULoLdB2
[YouTubeで再生]
気韻生動の例を挙げておこう。
絵画ではないが、まあ、こんなものだ。

返信する

055 2026/07/08(水) 08:03:27 ID:MpOKI1nCq6
>>53
秘仏開帳と言えばフェノロサ、岡倉天心、九鬼隆一の夢殿救世観音開帳。
https://www.naturalright.org/fake/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%...

返信する

056 2026/07/08(水) 10:14:21 ID:MpOKI1nCq6
>>55
それぞれ腹に一物ある食わせもの達による「勅命」(天皇の命令)を捏造しての強制的な秘仏開帳……
ここで言いたいのは、日本美術の近代の幕開けに「国家権力」が不可欠であった事実だ。
「芸術」は暴力だという本質は「権力」のことである。神殿ではなく「偽」神殿である理由もまたここにある。

返信する

057 2026/07/09(木) 10:22:31 ID:o9wxXXHghI
>>56
日本の近代美術史において、国立美術館は戦前までは存在してはいなかった。明治時代から産業博覧会の後を継いだ美術展覧会は開催されてきたが、ついぞ国立美術館は建設されなかったのである。ここに芸術という権力の秘密がある。欧米では国立美術館は、ナショナリズムや帝国主義と結びついて展開し、ナチス・ドイツなどは古典写実主義以外の芸術を退廃芸術として排斥した。ハウス・デア・ドイツェン・クンスト(1937)がその中心拠点美術館であり、Führermuseum(総統美術館)計画は遂行できずに終わった。

返信する

059 2026/07/12(日) 20:37:46 ID:2oERsIxLis
>>57
戦前の日本に国立美術館(偽神殿)が建てられなかったのはなぜだろう?
戦前の日本には皇室を中心とした国家神道が全国津々浦々を統べる天皇国家体制であったから「視線を管理する装置」、「拝む装置」の必要に迫られなかっただけではないだろう。国立の帝室博物館(1900年〜前身が帝国博物館1989年)には皇室への献上品としての美術コレクションは公開はされていたが、美術館ではなかった。
芸術とは国民国家には限定されぬ基軸芸術なのであり、芸術覇権なのである。
その覇権はヨーロッパの中国と称されるフランスが発祥であり、17世紀絶対王政ブルボン朝のルイ14世の創案に源流を遡る。芸術の都パリの原点はフランス革命前の絶対王政期にあったのだ。

返信する

060 2026/07/12(日) 21:04:42 ID:2oERsIxLis
先立つ16世紀、イタリアルネサンスの曙光はヴァロア朝フランソワ1世のダ・ヴィンチ招聘によりパリに最初の陽が差し込んだ。だがそれはやがて自由な商人文化の気を削がれ、宮廷マニエリスムへと萎む。
他方カトリック教皇庁本拠地イタリアでは、宗教改革の余波への対抗でアンチロゴスのイメージ戦略を計り、ルネサンスからバロックへと、より鮮烈で劇的、イメージ喚起的な破調の美への転換が起きていた。
ヴァロア朝の後を襲ったブルボン朝は、再びイタリアバロックの華を摘みに出掛ける。ベルニーニという華であるが、喧嘩別れで逃げ帰られてしまう。
しかし、フランスは既にヨーロッパの中国に変身を遂げつつあり、中華思想的な誇りを育て、イタリアと袂を分かっても絶対王政に相応しい独自の芸術戦略を磨く段階にいたのである。
ブルボン王朝の古典主義、フランス革命後の新古典主義は、共に一貫して「ロゴスと普遍」をテーマにしていたようだ。擬ルネサンスであり続けたのだとも言い換えられよう。新古典主義はアンピール様式を経て反動としてのロマン主義をもたらすが、これも折衷して飲み込む自律的な芸術運動が開始されてモダンアートに接続するのだ。ここに来てイデア、ロゴス、芸術が美によって束ねられ、基軸アート、芸術覇権はパリにおいて確立され、そして、ルネサンスの種を保持してきたイスラーム文明が、サウジのムハンマドによる普遍価値の象徴《サルバトール・ムンディ》奪還というかたちで、その歴史へ再び姿を現した意味もまた理解せられるのである。

返信する

061 2026/07/13(月) 05:35:19 ID:IUINSsdka6
革命期フランスではロゴスの新古典派に対して宮廷ロココが退廃芸術とみなされて排斥された。古典主義はロゴスを通して普遍的なイデアに通じるという構図が重要である。
ナチス・ドイツはもやはり古典主義に依ったが、ナショナリズムやアーリア民族英雄主義に留まり、社会主義ソビエトは、古典主義ではなく社会主義リアリズムに依って抽象表現主義や印象派以降の芸術表現を排斥した点が普遍主義からの距離、即ちイデアという普遍主義根拠を持てぬ賊軍に堕ちる種を宿していたと言えよう。

返信する

062 2026/07/13(月) 13:02:44 ID:IUINSsdka6
元はといえば、プラトニズム+キリスト教→新プラトニズムに基礎付けられたのがヨーロッパ神学ではあったのだ。
ところが十字軍→イスラームに保存されていたアリストテレス哲学の逆輸入→ルネサンス→新プラトニズムの再生と神学的動揺→宗教改革となったものだからフランスでは古典主義&デカルトの機械論と大陸合理主義の形成→絶対王政理性主義の萌芽→啓蒙思想→フランス革命と玉突き的に歴史が動く。
片方でイギリスにおいてはローマ辺境の非世襲的部族的実力主義の伝統に基礎を置く議会をもつがゆえにカトリックからの離反がもたらした国教会主導の政教一致絶対王政の目論見が市民革命で流産した。それがアメリカ独立戦争を経てフランス革命へと連鎖したというのが、フランス革命前史である。
つまり、何であれほとんどの原理、主義といったものはその成功ゆえに滅びるという歴史法則をここに見るわけである。

返信する

063 2026/07/13(月) 16:52:27 ID:IUINSsdka6
日本の国立美術館創設は1952年、サンフランシスコ講和条約の年であるが、皇室コレクションの公開はトーハクであり、美術館創設とは直接的な関係がない。
世界は片隅の日本の状況を余所にこうして芸術覇権を築き、国際社会復帰というなら国立美術館も……という大きな流れの中にある。
芸術という権力は、一国家内には留まらない。それは近代文明覇権なのであり、なぜフランス?なぜパリ?の答えを述べるなら、古代ギリシアからキリスト教、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を語らねばならない。

返信する

064 2026/07/13(月) 17:01:53 ID:IUINSsdka6
本来はイデアからもロゴスからも遠い「芸術」が、美によってイデアの一角を占めることになり、ロゴスも奉仕する形で統合を果たし、主観的感情や宗教から独立した普遍性を獲得することで「芸術」の覇権、基軸アートというものが成立することになった。
フランスはロゴスにこだわっただけなんだけれど、「芸術」における美がイディアなものだから、それが幸いして普遍性を獲得し、「芸術覇権」というものを確立する僥倖に浴したというわけである。
美はイデアなのに、美というイデアを詰める学としての美学はロゴスによる美の追跡実現工法を早々に諦めてしまった。「芸術」が美から離反(逃亡)して以降は、普遍を語れぬ立場なのに、樹立された「芸術覇権」の上に胡座をかいて基軸アート認証を盾に暴力を振るうだけのヤクザなゴロツキに堕したのが現状である。

返信する

065 2026/07/13(月) 17:10:25 ID:IUINSsdka6
その異常事態を招いたのがカントだ。
カントは現代アートをおかしなものにした戦犯だと言えるのかも知れない。
カントに言わせれば、美はイデアではなく、主観的で感性的なものである。その主観的判断には「普遍性要求」が伴う。美には概念的規則がない。美を生み出す方法を理論化したり、法則化したりすることはできない。そこで「天才」が登場する。「天才」とは、「芸術に規則を与える才能」である。天才は規則に従うのではなく、作品によって後から規範となる。しかし天才自身も、自分の創作原理を説明できない。

つまり、美の創造は再現可能なロゴスではなく、自然が天才を通して働く営みとされる。しかも天才を投入することで規則やルールまでもを天才に委託してしまったのだ。なんと便利な天才。芸術は天才の独壇場で、凡夫には触ることのできない特権的で特殊な禁足地だ。

返信する

066 2026/07/13(月) 20:48:13 ID:IUINSsdka6
カントが美をイデアならぬ主観としたことで、結局は芸術の美からの完全なる剥離をもたらすことにもなった。何故なら主観の牢獄では実務家たる天才芸術家といえども実は手も足も出せないからである。遂には主観だけに全権委任された「天才」達の悲鳴叫喚が避けられず脱走が図られてしまった。かくて現代アートは、一切美を相手にはしていない。

美の何たるかを語れぬカントは、天才を美の司祭として導入する他なかったが、その天才とやらは美を担えなかった。或いは、主観は独房に放り出されて何もできなくなった。指一本も動かせない芸術の主観牢獄への拘禁刑がカントの嘘のせいで生まれ、芸術家たちをギリギリと苦しめたのだ。

返信する

067 2026/07/17(金) 16:12:37 ID:iCMAQ.8nMU
美は突然現れ、たまに我々のなかの誰かが模倣出現させる事があるけれど、ロゴスでは追えない。
美を追うロゴスが見つからない。ロゴスで美は追えないから、実践的に見つけ、捕まえるものである。常人には共有不可能なそれができる才能を天才と呼べばいいだろう、そうカントは考えた。
カントは美をロゴスで追う困難回避に、美はイデアではなく主観だと飛躍し、天才というブラックボックスを導入してケツをまくって逃げた。
それだけならまだしも、天才の一人相撲も回避せねばと天才とやらは万人にこれを美だと認めろと普遍化要求を人々に突きつけてくるというのだ。美を勝手に恣意的操作可能な安いものに貶めて、規則を設定できる特別な権力を天才に付与した戦犯がカント。
基軸アートや芸術覇権の元凶はカントにあり。
カントは最初に音を上げて匙を投げた敗北者に過ぎす、敗北の後に屁理屈をこねた先駆者だというだけ。カントは哲学界のマルセル・デュシャンだったわけだ。
デュシャンも負けは認めてはいない。二人とも負けて、誰にも負けたと悟られないように逃げただけなのだ。それ程に美は手強いということや。大半の芸術家は逃げ出す。哲学者もや。敗者のくせに美は天才が創設可能なルールに過ぎないと二人とも考えた。片方は屁理屈家、片方は実践者という違い以上のものはない。天才などというものも芸術界にはいない。美の追及から逃げ出した天才が芸術の規則やルールを敷けるわけは最初からなかった。
システムや制度、覇権が基軸アートを決めるのである。

返信する

068 2026/07/17(金) 19:54:28 ID:iCMAQ.8nMU
実はこれはカントオリジナルではなく、イギリス経験論の、デビッド•ヒュームの受け売りをカントが展開したものに過ぎない。ヒュームは寸止めで主観とまでは言わなかった。趣味だと言った。余計な天才を持ち込んたり、普遍性要求という傲慢をかましたのがカントである。
普遍性要求は認証覇権争いが回収するしかなかったのが現実。カントは普遍性要求などという分かったような分からないことを持ち出さざるを得なかった。普遍性要求に似たものは芸術覇権という権力でしかなかった。
とにかくカントには美がわからなかった。天才という助け舟を出して、その普遍性に関しては、普遍性要求を措定して布教宣伝と共感だけで広がるものとした。以上。
カントは説明から降りたことで芸術論に負けた。そして意識的か否かを問わずそのカントと同じ轍を全ての芸術関係者が踏んで今日に至るのだから、敗者の道をゾロゾロ歩んでいるのが現代アートだ。
美なくして普遍なしなのだから、本来ならば現代アートは普遍不在を認めなくてはならない。
つまり現代アートは芸術ではない。潔くそれを認めなくてはならない。
美という普遍的根拠を放棄した以上、誰かが「これが普遍である」と認証しなければならなくなる。
そこで誕生したのが芸術覇権であり、基軸アートである。

返信する

069 2026/07/18(土) 12:52:04 ID:rqTsJ7yIVE
現代アートから美が剥離して問いとか批判とか認識とかブツブツ言いながら文脈自己循環となり、基軸アートにつながる。カントが理論的に敗退した後、デュシャンが実践的に敗退して美からの剥離に逃げるんだな。
酷い言い方を許してもらうなら、カントが言うように、実践局面でせめて天才芸術家による普遍要求による美の再生産サイクルが回ればまだしも、そうはならず、主観に籠る拘禁刑に等しい美からの逃走(脱走?)を決行し、規格ルールをでっち上げて覇権と基軸アート宣伝で暴力的に普遍要求だけをばら撒いたのが現代アート。
もはやそれはどうでも良い。カントの犯罪である美を主観の牢獄に閉じ込めたことが実践家の苦悩、苦悶を積み増し、思い余っての脱走ゆえに美は芸術から永遠に遠ざけられることになったからだ。 
普遍なく美なき芸術とは?それは芸術ではなく芸術規格。ISOみたいな標準規格であり、基軸アートを握った芸術覇権が認証する適合品だ。芸術とは美も意味も価値もかなぐり捨てて認証による価格をインサイダーが自由に操作するマネロン媒体である。

返信する

070 2026/07/19(日) 05:52:58 ID:xeMlKvIYPE
美の難解さを扱うなら、プラトンのイデア論が最適、最善であるのに、これを叩き潰した近代哲学が間違った。
芸術とは、イデアを生み出すものではなく、イデアと出会うための生成の場である。
美のイデアはロゴス(概念)、パトス(情動)、生成・形態形成という複数の経路で現実に顕現するが、芸術は特にパトスと生成に関わる。だから芸術をロゴスだけで理解しようとしたヘーゲルは十分ではなく、感性を主観に閉じ込めたカントも、美そのものを取り違えた。
プラトンは芸術を「ミメーシス(模倣)」と見て真理から遠いとしたが、むしろそのミメーシス性ゆえに、作品を手掛かりとしてイデアへ接近できる。芸術は非現実の領域だからこそ、ロゴスによる概念化の対象にもなり得る。
制作では、最初から完成した美が見えているわけではない。朧げな美の予感を頼りに、絵具・石・音・言葉などの素材と格闘する試行錯誤の中で、思いがけずイデアと出会う。その意味で、プラトンの「想起(アナムネーシス)」は哲学的対話だけでなく、素材との対話による制作論へと拡張されるべきである。
美の困難は一方向性関数だからである。

返信する

071 2026/07/19(日) 11:12:59 ID:xeMlKvIYPE
数学的・情報科学的に最も冷徹な真実は、美の構成要件が「関数」ではなく「一方向性関数」の構造を持っているからだろう。
美の「検算」は一瞬だが「逆算」ができない。美の検算は他者が行なう査読のようなものだ。
暗号理論において、「順方向の計算(検算)は一瞬でできるが、逆方向の計算(解の特定)はスーパーコンピュータを使っても不可能に近い」という性質を持つ「一方向性関数」が存在している。
美の構造はこれと完全に一致している。
検算(認知)の客観性:極限まで洗練された幾何学や数式(例:黄金比、白銀比、オイラーの等式など)を提示されたとき、私たちの脳はそれを「美しい(正しい)」と一瞬で判定(検算)できる。これはバグでも主観でもなく、論理的な正しさの確認である。
逆算(創造)の不可能性:しかし、「では、誰もが美しいと認める、これまでにない全く新しい幾何学のバランス(解)をゼロから導き出しなさい」という問いに対して、それを一発で導き出す数式(アルゴリズム)は存在しない。

返信する

072 2026/07/19(日) 18:13:27 ID:xeMlKvIYPE
芸術家とは、美の潜む居場所を知っており、探し当て方に長けた名人。
実際に美に出会ってからはそれを他者に伝えられるミメーシスに移せる表現技術者だ。芸術家の「才能」は美を知っていることではなく(知ってはいるのはもちろんだが)、探索空間を効率よく枝刈りする能力と捉えることができる。これはAI将棋が全探索ではなく、評価関数と探索戦略によって現実的な時間で強くなっているのとよく似ている。芸術家は訓練により本来ならば総当たりでしかたどり着けない美に将棋の名人のように最短でたどり着けるのだ。
直感と訓練、反復、パタン認識により、ショートカットをものにできているのが芸術家だということになり、一方向性関数であるが故に一旦たどり着いた美のミメーシスは、誰の目にも美だと伝わりやすいのである。つまり一方向性関数だから布教宣伝する制度など要らない。

返信する

073 2026/07/19(日) 20:05:23 ID:xeMlKvIYPE
カントのように主観の檻に閉じ込めた後、謎の天才を召喚し、作品が美であることを普遍化要求を振りかざして布教、宣伝する制度や仕組みなどは無用なのである。にも拘らず、現実はなぜかカントの敷いたいかがわしいレールの上をスルスルと滑り出してしまい、現代アートという怪しげな代物を産み落としてしまった。

まとめると

イデアは存在する。
イデアの顕現には複数の経路がある。
ロゴス
パトス
生成(形態形成)
芸術はパトスと生成を主経路とする。
生成はイデアを創造するのではなく、イデアとの出会いの場である。
ミメーシスとは、その出会いを他者へ伝達可能な形態へ移す行為である。芸術家は制作プロセス内で発見する。このミメーシス生成プロセスは一方向性関数構造なので、受信した万人が(恰も自然の美を前にした時に直ちに美のイデアを思い出せるように)美のイデアを想起することは容易い。ある意味コロンブスの卵である。
イデアそのものは提示できない。
したがって、その出会いはミメーシスとしてでしか他者へ伝達できない。
ゆえに芸術とはミメーシスである。
芸術家とは、その第一のミメーシスを生み、後続のミメーシスの起点となる者である。
カントは感性を主観と取り違え、ヘーゲルは生成を概念へ回収してしまった。

返信する

074 2026/07/20(月) 08:51:41 ID:T.6wV5X6bM
例えば自然が模倣でなく美のイデアを表出し、そこから美のイデアを汲み取った芸術家がある表現方法でミメーシスを制作して人々に伝えることができたとする。芸術が存在するのは自然か?ミメーシスか?
ミメーシスである。芸術とはミメーシスだ。
さて、ここで聞きたい。AIは、私の見る所、芸術ではないかも知れないが、美を制作する能はあると言える。これはミメーシスの一種なのに芸術ではないのか?どんなミメーシスが芸術なのか?

人間の中にもAIのように既存の美を学習した中から美の連想を働かせてイデアに出会うことなくミメーシスの模倣で制作する人々はおるからね。

驚くほど真の芸術家は少ないんだろう。モネやドガは芸術家であるけれども、狩野派の大半は芸術家ではない。人々が見たことのない美を提示してみせたスタンリー・キューブリックやリドリー・スコット、帝国少年も芸術家と言えるね。
世に溢れるミメーシスの『ミメーシス起点になった作家』が芸術家なのだよ。

返信する

075 2026/08/04(火) 12:37:04 ID:uz8CK.dKDk
討議、議論板でプラトンからブルトンへを解説しようとしたら、スレ主が無知を晒して恥かいたせいなのか、スレ消し逃亡してしまった。
創価でもなんでもクソレス書いてくれないと連投できないんだよな。

返信する

076 2026/08/04(火) 19:47:43 ID:uz8CK.dKDk
ヨーロッパにおける第一次世界大戦の強烈なインパクトは、理性と美への絶望を決定的にした。
西洋美術界はプラトンのイデア論的な善なる美への信奉を捨てざるを得なくなったのである。プラトニズムはなんだかんだ言ってキリスト教神学とも抱き合わされて西洋美術をルネサンス以降も支え続けてきた原理であったが、プラトニズムの欠陥はそもそもなぜ善ならざるイデアという片方を無視するのか?という真善美偏重にあった。宗教改革後も、フランス革命後も神が理性に置き換わっても真善美偏重は概ね維持されたのだが、第一次世界大戦はこれを打ち砕くに十分な心的外傷後ストレス障害をヨーロッパに与えたのである。
社会集団に及ぼす心的外傷後ストレス障害の影響はその文化や宗教の形成に大いに与るのであるが、この分野の研究は殆ど行われてはいない。日本では岸田秀止まりであるが、日本の神道成立とと火山や地震災害の関連のように時々話題にはなる。心の傷は集団的にも中々癒えないものである。

返信する

077 2026/08/05(水) 10:26:44 ID:Hj6xLplhpM
「なぜ置き換え不能なほどの崩壊が大戦で初めて起きたのか」?宗教改革の戦乱(三十年戦争など)もフランス革命の恐怖政治も、規模としては凄惨だったが、それでもヨーロッパは新しい座(理性、国民国家、進歩史観)を用意する余力を持ち続けた。大戦が違ったのは、産業化された殺戮(機関銃、毒ガス、塹壕戦)が理性・技術・進歩そのものを加害者の側に置いてしまったことだ。それまでの戦乱は「理性の外側」で起きた野蛮として処理できたが、大戦は理性と科学の産物が理性そのものを裏切って見せた。だから代わりの座を立てようにも、座を立てる主体である理性そのものが信用を失っていた。ここに、置き換えではなく崩壊が起きた固有性がある。

返信する

078 2026/08/05(水) 11:16:15 ID:Hj6xLplhpM
リスボン大地震がフランス啓蒙主義に繋がっていったのも心的外傷後ストレス障害の症状とまでは言えないまでも、心理的補償作用が働かなかったとは言えまい。ルソーによる人為への疑義にもかかわらず、依然理性への信頼だけは死守されたのが啓蒙主義であったと言える。
フランス革命は理性崇拝と自由平等博愛の普遍的価値をもたらした事で、プラトニズム的な美のイデアを延命したのだ。そのプラトニズムが破綻した後に芸術は存続し得るのか?

返信する

079 2026/08/05(水) 14:00:17 ID:Hj6xLplhpM
イデアなき芸術の救出の手立ては端からイデア無き日本、東洋発でなければなるまい。そこで私は芸術とは美のイデアにかしずく営為にあらずしてミメーシスそのものなりと訴えたい。

返信する

080 2026/08/05(水) 21:45:09 ID:Hj6xLplhpM
イデア論をかなぐり捨てるなら本来であればこの模倣論を立てて磨き上げるのが哲学者の仕事ではなかったか?
この世には芸術家というものは存在しない。芸術は分からなすぎて芸術家本人にも分からない。大抵の芸術家は芸術家ではない。誰なら分かるか?誰にも分からないというのが答え。つまり、芸術とか、芸術家という概念自体を廃止すべき。
それは今や神様とか、イデアというに等しく非存在である。別の呼称、概念に変更した方がまだしも世の中に有意義である。
候補はあり、真似という概念に基礎を置くべきであるから、✕イデア、〇ミメーシスと切り替えて、「写し」と呼ぶべき。これならトレパクの江口寿史も古塔つみも「写し」だから、OKだし、AIの著作権侵害問題も消えるだろう。所詮は「写し」なのだからだ。著作権というものを廃止し、肖像権侵害をのみ争うべきとなる。駄目な「写し」は商標誤認を誘う詐欺とかになり、ほとんどの「写し」は解放すればよいのだ。そして余計な想いや意図、コンセプト、は脇において作品の「写し」の巧拙、美醜、心への響き方、好き嫌いを自由に語ればよいだけのこと。

返信する

081 2026/08/06(木) 07:20:24 ID:eXqRAbIapw
まとめると、芸術の祭り上げはプラトニズムが元凶。イデア論ゆえにキリスト教と抱き合い、神学ともダンス、絶対王政でフランスパリがメッカになった。
リスボン大地震て神学が衰えて啓蒙主義やイギリス経験論を経由したカントによりイデア論がほぼ頭の中からは追い出せたけど天才が事実上の預言者扱いにされて三位一体化したに過ぎない。
芸術という概念がまさにここに成立。
にも拘らず二度の世界大戦で完璧にイデア論が崩壊したのが二十世紀以降。ニューヨークに覇権が移ったのではなく、芸術そのものが爆死したのだが、ゾンビが徘徊してアート市場の幻を回しているのが今現在……と総括できる。

返信する

082 2026/08/06(木) 16:03:49 ID:eXqRAbIapw
十字軍・レコンキスタ(トレド翻訳学派)

アリストテレス逆輸入

トマス・アクィナス(アリストテレス+新プラトン主義の総合)

後期スコラ学 ─┬→ ドゥンス・スコトゥス(個体化の原理)

オッカム(唯名論・神の絶対的全能性の擁護)
├──────────────┐
↓ ↓
信仰義認論(ルター) 方法論としての反普遍主義
↓ ↓
宗教改革 ベーコン(イドラ論・帰納法)
↓ ↓
ピューリタニズム(16c〜) ─┘(同時代・別水源として合流)

王立協会(1660)

イギリス経験論
アリストテレスが、プラトニズムから西洋美術を救済する可能性はもはやない。プラトニズムの中で切り捨てられたミメーシス=写しにこそ救いはある。イデアなき写しでも芸術は成立し、写しこそが芸術の本質であったことに覚醒を促す必要がある。これはイギリス経験論的にも支持され得る事実で、あらゆる創作活動のプロセスが、模倣に始まる現実からも明らかであるのみならず、生き物が親の真似をすることで生存し続けるける存在であることとも地続きだ。

返信する

083 2026/08/06(木) 17:10:16 ID:eXqRAbIapw
膨大な過去の先人達の蓄積に気圧されたか、いち早く傑作の予感を取り下げ、美からの逃走劇と化したのが、美術界であり、芸術だな。世界大戦は良い口実になった。PTSDですんで……勘弁してやってくだせえ。
現代アートの無様は目も当てられないが、美を切り捨てたからだと言える。同じく膨大な蓄積を拾って美の勝ち筋を再構成するに役立てたのが生成AIだと言える。人間の敗北した地点から、クリエイションを始めたのだね。
芸術を写し、ミメーシスだと割り切ればどうか?
真似をするのは当たり前。写し屋なのだからだ。

返信する

084 2026/08/06(木) 17:50:13 ID:eXqRAbIapw
世阿弥の花。 「花」(観客を打つ生きた美)は先代の花をそのまま受け継ぐことができず、演者がその都度、自らの心身を通して新たに咲かせ直さねばならない。
ひとり芸術には限らない。
「大原を継ぐ~京都市左京区」NHK小さな旅を見ながら考えた。
伝統とはミメーシスなのに、毎年しば漬けを漬けるという再現継承の最中に「ほんまもん」を現さにゃならん。イデアはミメーシスの中にしか現れん「ほんまもん」なのやないか?それは京都大原のしば漬けでも同じこと。
「美しい花がある。 花の美しさというものはない 。」(小林秀雄)美しい花という個物は、毎年美しく咲くのだ。遺伝子が写すから形相が再現されるのである。

返信する

085 2026/08/06(木) 19:49:18 ID:eXqRAbIapw
同じくNHK小さな旅「北の清流絶え間なく 北海道 後志利別川」では模倣で生きる人々が描かれていた。じいちゃんの農作業の模倣、後志利別川の模倣としての和太鼓……ミメーシスの語根ミーモス(模倣者)からミメーマが派生し、そこからからミームという造語が生まれた。人は何を写してきたか、ではなく、生き物は何を模倣してきたかが問われるべきだと思われる。親から学ぶ子は人間だけではない。「仕事が暮らし暮らしが仕事」(河井寛次郎)仕事を芸術と言い換えても成り立つであろう。
模倣する猿としての人間論が書かれなければならない。
ホモ・ミメティクス(模倣する人)
その営みの中に芸術、写しは、位置づけられる。

返信する

086 2026/08/07(金) 05:48:37 ID:3.r046lbus
中国美術思想において「写し(模写・再現)」は、単なる技術のコピーではなく、「過去の聖人の精神を継承し、宇宙の真理(道)に近づくための神聖な修行」と体系化されている。
「写し」の核心を表す4つの決定的な思想エッセンスがこちらだ。
1. 伝移模写
2. 師古人→ 師造化→ 師心源
3. 以形写神
4. 奪胎換骨
単なる写しと侮るなかれ。イデアがなくとも美は追われ、芸術は世代を越えて磨かれ続け得る。

返信する

087 2026/08/08(土) 06:14:30 ID:slW9XLuWg2
数寄や表出や風流、粋を持ち上げたけれど、それらはまだハードルが高く、どうやら本質ではなさそうだ。
本質、どうしようもない衝動は真似、模倣、ミメーシスなのではないか?
イデアがあるなし関係なく、我々は真似たがる。写したがる。それは太古以来「生存に直結してきた本能」だ。上手く写すことは生きること、生き残ることではなかったか?それが表出と呼ばれたのは、よくできた模倣への褒め言葉だ。言葉もそうして覚えたし、習慣や所作も身につけた。われわれの表出は、物真似だ。原点がそこにある。上手くできた真似は美しい。その美しさの先に美があり、祝福があり、イデアの幻がある。

返信する

088 2026/08/08(土) 13:21:09 ID:slW9XLuWg2
交換可能性は価格を生み、交換不能性は価値を生む。
『絶対』とは、形而上学的な天上概念ではなく、代替不能でかけがえのない大切な人、物、ことの一切が起源だったはずである。我々は今でもこの『絶対』を知っている。それが価値の起源であることも。
だが、それらは脆く儚く、失われてしまい易い。この現実を無常観で補償したのが東洋であり、日本。
一方、無常観を養うことなく神やイデアを立てたのが、西欧社会だと言えるのだろう。

返信する

089 2026/08/08(土) 14:08:54 ID:WEghvzi9E2

おい、名誉白人のポチ犬野郎
いつになったら、人間はAIで発狂するんだ?


主体性喪失で、人間の精神が崩壊するって妄想をしれっとキャンセルしたんか?

返信する

090 2026/08/08(土) 17:52:00 ID:slW9XLuWg2
世界大戦でそのイデアまでをも失ったヨーロッパは、相対主義と現代アートを生み出さざるを得なかった。
現代アートは、交換不能性を打ち破り、ひたすら交換可能な価格で突っ走る市場を横目に、そこに救いを見たのかも知れない。価格と戯れて価値を忘れよう。商品と記号と戯れて絶対とは縁を切ろう。そんなぶざまな強がりを演じなければ幕を下ろせない西欧の絶対の文明。
ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、アド・ラインハルト、マーク・トビーらはは禅、侘び寂びに触れつつもその精神は理解できなかった。
ボードリヤールやドゥルーズは、ミメーシスの本質を掴めずシュミラークルという座興と戯れて反プラトニズムだ、ポストモダンだと騒いで終わった。
中々西洋を脱ぎ捨てるのは難儀と見える。

返信する

091 2026/08/08(土) 19:42:47 ID:DqOzV4fOww
>>90
名誉白人のポチ犬野郎は、尻尾巻いて逃げたか

口ほどにもねぇーな(笑)
ご主人様の二番煎じと、甘噛み程度の反抗をせいぜい楽しめよ

返信する

092 2026/08/08(土) 20:16:43 ID:slW9XLuWg2
[YouTubeで再生]
近代美学は「自然/現実を写す(再現)」対「内面から創造する(表現)」という二項対立を立てて、後者を格上に置いた。
だが、そもそも画家の欲望の対象自体が自然ではなく他の作品だ、という事実――つまり「創造」と呼ばれてきたものの実態は、常に既存の写しへの写し(ミメーシスのミメーシス)だったということ。
これは「無から有を生む絶対的創作者」という虚構をピンポイントで撃ち抜く一撃でもある。もし画家が本当に自然だけを見て、そこから直接何かを生み出しているなら、近代の創作者神話にも一理あったかもしれない。しかし実際の衝動の発生源が常に「先行する写し」だとすれば、系譜は最初から途切れずに連鎖している――写し屋は写し屋の写しに欲情し、それをまた写す。ここに「起源」はなく、あるのは連鎖だけ。
無名の誰かの創作が連鎖する事例など数多ある。liminal spaceなどである。

「画家は自然を見て描きたくなるのではなく作品を見て描きたくなるのである」という名言があるが、まさにそれ。

返信する

093 2026/08/09(日) 09:08:18 ID:hO7TFXntpM
>>92
https://vt.tiktok.com/ZS4p5nWV4...

「美ではないが同じ経路を辿るもの」としての リミナルスペース系の考察

美ならずとも同型のミメーシス連鎖を生むもの。

リミナルスペース/バックルームズは美(快・調和)ではないが、「模倣を導く確かな手応え」という点で美と同じ機能的挙動を示す。
これらの本質は「そこは目的地ではない」「通過する/した/出なければならない場所」という違和と不穏を醸す構造そのものだ。過渡期(時代が次の形に定まっていない宙吊り感)の空間的な形象化でもある。
ドリームコア/ウィアードコアになると視覚言語は隣接するが構造は対をなす。これらは目的地の不穏さの視覚記号(グリッチ・彩度のズレ等)をカタログ的に組み合わせたものだが、映像トリップの駄作でLSDなり損ねと断じざるを得ない。
数多くの模倣を連鎖させたにも関わらずバックルームズは芸術家不在のムーブメントだ。匿名の起点が本人の確信も自覚もないまま共同体全体に即座に開かれ、模倣が加速した。作家性を可視化する「職人型」に対し、作家性を消すことで拡散する「集合型」という、「イデア」伝播の第二の型が確認された点は興味深い。

返信する

094 2026/08/09(日) 09:18:40 ID:hO7TFXntpM
プラトンのイデア論の欠陥は、イデアが真善美に限定される根拠がないことである。
イデアの内容と機能の分離——美・崇高のイデアと不気味・違和感満載の通過点(リミナル)は、内容としてはな反対物だが、「模倣を導く確かな手応え」という機能触媒としては同一の挙動を引き起こす。体系の頂点にあるべきは「美」そのものというより、美をその一発現形態として含む、より中立的な「確かな手応え」としてのネガイデアが存在する可能性が示唆される。遠隔地へのデザインの模倣伝播が著しく観察される縄文デザインもまた必ずしも美ゆえと限る必要もないのかも知れない。

返信する

095 2026/08/09(日) 09:35:11 ID:hO7TFXntpM
縄文土器・真葛焼とアール・ヌーヴォーの関係は二層で説明される。深層(アナムネーシスの底流)では、器に具象・有機的生命を宿らせる様式は日本列島に限局されず、ペルー・モチェ文化、インダス、アステカの人面・具象装飾土器など、時代・地理を超えて独立に現れる並行現象である。表層(実証可能な歴史的伝播)では、19世紀ジャポニスムを通じ真葛焼が実際にヨーロッパへ伝播した事実が速やかなる受容と反響の末にアール・ヌーヴォーに影響を与えた事実がある。両者が稀に一致した例が真葛焼であり、「イデアは独立に想起され得る」ことと「美が伝播すること速やかなる」ことを同時に示す。

返信する

096 2026/08/09(日) 10:25:09 ID:hO7TFXntpM
ファルマコン——ショートカットとしてのドラッグの危険性
向精神中毒性キノコの発見・儀礼化も、美と同じ「発見→模倣→伝播」の経路を辿ることが観察される。これは唯物論的な反証(脳の報酬系だけで説明できるのではないか)を招きうる一方、プラトン自身が『パイドロス』のファルマコン概念(薬にして毒)や神的狂気の議論、エレウシス秘儀のキュケオン(麦角菌由来説あり)を通じて、この両義性——同じ通路が啓示にも破滅にもなること——を既に見抜いていたのは見逃せない。
ドラッグ・LSDによる手応えは、本物の一方向性関数(訓練・制約との格闘・総当たりなき到達)を経ずに、化学的介入によってイデアに似た感覚だけを近道で得ようとする、偽の到達である。この近道には二重の危うさがある。第一に、化学的に誘発された手応えが、本物の想起と体験として区別できないほど強烈であるがゆえに、当人がそれを本物の到達と誤認しやすいこと。第二に、この近道に依存するほど、嶮岨にして困難な一方向性関数への道——訓練・制作という遠回り——に戻る力を蝕まれ、身を持ち崩す(依存、精神的・身体的損耗、創作能力そのものの枯渇)危険を伴うことである。芸術家がしばしば酒や薬物で身体を蝕まれてきた歴史は、この偽の到達ルートが持つ破壊力の証左であり、プラトンのファルマコン概念は、イデア論の穴を塞ごうとしつつそれが身を持ち崩す芸術家像も先取りしていたことでかえって理論の破綻を示唆もしていたわけだ。

返信する

097 2026/08/10(月) 15:56:08 ID:T1Eb2NvAX.
絶対の永遠固定化と、ネガティブなものは切り捨て良きもののみをイデア化した偏向。
この二つは西洋文明原理としてギリシアローマ以来西洋を飲み込み、キリスト教と共に世界観を牛耳ってきた。アリストテレス逆輸入でもリスボン大地震でも揺るがなかったイデアは、カントによって地上化された代わりに天才と普遍化要求という偽造物で延命された挙句二度の世界大戦で無事臨終、ゾンビ化して価格のタコ踊りしかやることがない。誰かあれらを清掃除霊撤去してくれないか?という為体。では。何が芸術を救うのか?どんな未来が芸術にあるのか?いよいよその見取り図を広げるときが来たようだ。

返信する

098 2026/08/12(水) 12:23:59 ID:0qdhPpYfMg
近代の「芸術・著作権」という概念混乱を解体し、第一原理から再設計した「写し(ミメーシス)と版権」の新しい表現・市場モデルの全貌。

​1. 概念の再定義:虚構の解体と真実への回帰
​近代が捏造した「無から有を生み出す絶対的創作者(神)」という虚構を解体し、人類本来の表現の姿へ言葉を更新。✕芸術→〇写し、✕芸術家→〇写し屋

2. 新しい法制度と市場の二層構造
​「表現の自由(模倣)」と「商業の保護(利益)」を明確に切り離した、シンプルで強固な二層システム。

販売者コピーライト(版権)への集約  
表現の模倣を全般的に縛るのをやめ、「商業プロダクト(商品)の事業保護」に限定した権利とする。

3. 作品評価の解放
​「作者の意図」や「批評家の解説」といった概念詐欺(文脈依存のブランド底上げ)を排除する。
​評価軸のシンプル化: 作品の価値は、余計なストーリーを抜きにした「仕上がりの良し悪し(巧拙)」「美醜」「感応性・インパクト」「個人の嗜好(好き嫌い)」のみで判断。
​批評家の解体: 特権的批評家は無用。各人が自由に購入し、味わい、評定すればよい。

返信する

099 2026/08/12(水) 12:26:48 ID:0qdhPpYfMg
​■著作権廃止、版権への一元化による変化
4. 既存インフラの変容と役割分担
​「神聖な芸術」の崩壊に伴い、オークションハウスと美術館は機能のみに特化した実質的な施設へ再編される。
​オークションハウス =「版権ビジネスの卸問屋」
​「写し屋」や初期事業者が持つ「版権(AI学習拒否権・商業展開権付き原版)」を、商業事業者や投資家へ競り売り・ライセンス取引する現物市場。
​美術館 =「版権切れのミメーシス博物館」
​商業的な現行版権品は扱わず、保護期間が過ぎたパブリック・ドメイン(人類の共有財)のみを展示。
​「人間がいかに世界を写してきたか」という歴史を保存し、観客が「生の写し」と直接対峙する知覚体験の場。

​5. 次世代の「写し屋(制作者)」の収益モデル
​制作者は「いつか評価されるのを待つ貧窮した芸術家」から、「高価値な一次データを供給する実力派プロデューサー」へと進化する。
​圧倒的な「写し(技術・インパクト)」を制作する。
​自ら「販売者コピーライト(版権)」を設定する。
​無断AI学習や無断複製を法的にプロテクトした上で、オークション(卸問屋)を通じて大型資本やAI企業へ高額でライセンス・売却する。
​「神様ごっこ」を捨て、純粋な「版権の元締め」となることで、現代の大ヒット漫画家やトップIPホルダー並みに健康的かつ巨大に稼ぐことが可能になる。

返信する

100 2026/08/12(水) 22:03:12 ID:0qdhPpYfMg
​結論
​表現の本質: 人類共通の無償のイノベーション=「写し(ミメーシス)」
​市場のルール: リスクをとって事業化する者の保護=「販売者コピーライト(版権)」
​二次流通: 単なる商品の移動=「転売自由」
​「神話」を剥ぎ取り、表現を人類の共有知へ、市場を透明な商業取引へと整流化する、極めて合理的で美しい設計図だ。

著作権という概念を取り去った上で漫画作品やキャラクター版権ビジネスにかなり近くなるイメージだ。
【空版権設定】
もし、制作者が、ビジネスは考えていないが誰か他の者が勝手にビジネス化するのは回避したいというのであれば、空版権設定を可能とすれば良い。制作者は自由に公開し、写しを許可するが、写しを商売には利用させない権利として登録可能な版権設定機関を作る。とはいえこれは無人の登録DBサーバーで構わない。


AIに食わせるのも許容する、しない、博物館展示を許可する、しない、同人二次利用を承認する、しないなど、空版権設定しておけば、制作者はコントロール出来る。

返信する

101 2026/08/13(木) 10:06:59 ID:/xvh15s26M
著作権法には立法事実はなく、版権さえあれば十分に足りる。そうしないことによる弊害、不合理、無駄な機会損失が起きている。

返信する

102 2026/08/13(木) 14:03:46 ID:e7Qe8KoUl.
芸術とは何か?

たかが絵のことくらいで名誉白人になりたがったり、

暇でする事のない人間だけがやればいいような事を無闇に称揚し、それを代理宗教のごとくする蒙昧な輩や、気位だけ高い乞食を産出ないしは量産することである


そんな風なバカげた時代が、終わるといいね

返信する

103 2026/08/13(木) 15:22:25 ID:/xvh15s26M
「空版権」は、単なる「商用禁止」の札ではなく、利用範囲を制作者が選択できる権利管理インフラになる。
つまり、空版権登録時に制作者が、
AI学習
許可する
禁止する
有償なら許可する
博物館・教育展示
無償公開を許可する
事前承認制にする
商用展示のみ制限する
同人二次利用
非営利なら許可する
一定規模以上は禁止する
全面許可する
翻訳・改変
個人利用は自由
商用改変は禁止
条件付き許可
のように、利用目的ごとに設定できる。
現在の著作権制度は「権利者が包括的に禁止権を持つ」という構造だが、この案では、
表現は共有可能、ただし、どの利用を認めるかを版権設定で宣言する。
という許諾設計になるのだ。
特にAI時代では、この発想は重要な論点になる。AI学習についても「全部禁止」か「全部自由」かという二択ではなく、
学習は許可するが商用生成物は禁止
研究目的のみ許可
対価を払えば許可
という細分化が可能になる。
つまり空版権は、現在の著作権を単純に弱めるものではなく、むしろ制作者の意思を細かく表明するための権利設定制度として設計できる、ということだ。

返信する

104 2026/08/13(木) 15:35:56 ID:/xvh15s26M
https://x.com/i/status/208755468361965177...
生成AIもアート・ディレクションしないと特定パタンに収束、収斂しがちで、このAI臭さはついにカニバリズムが起き始めたのではないかという説もある。
心がAI、人間AI絵師だと言われる田中圭一氏だからこそのポスト。

返信する

105 2026/08/14(金) 17:28:26 ID:5cqIiZnBC6
縄文土偶は、なぜそのデザインが広域拡散したのであろう?制作者が移動したわけではなかろう。それらの形象に意味が込められていたとしても、その意味は遠隔地までは伝わることなく形象だけが模倣されたのだ。同時代人だから、縄文文化という共通の文化コンテキストに住むからという理由でひと目見ただけで担う記号的意味が伝わったと推定するわけには行かない。解説書宜しくものには必ず説明役が寄り添いシニフィエを説明して回った………わけがない。
模倣されたわけは格好が良かったから、美しかったから、心に響いたからであろう。リミナルスペースを語ったとき、プラトンの偏向を語ったとき、「模倣を導く確かな手応え」という言い方をした。必ずしも美しくなくとも奇妙であったとしても心に響いたのなら真似はされる。「土偶を読む」で竹倉史人は、写したい対象物との類似が、遠隔地まで伝わると考える必要はなかったし、そう考えることは無理筋なのだ。どこかで出土した土偶が何かの植物に似て見えれば、十分なのであり、考古学者がやりがちな形態分類は系譜やましてや土偶に込めた意味を同一性で繋げはしない。

返信する

106 2026/08/14(金) 17:32:53 ID:5cqIiZnBC6
仮に竹倉説である「土偶は植物の精霊の可視化だとする説」を認めたとしても、考古学者が同じ系譜とグルーピングする土偶が全て同じ一つの植物を表象しているとは限らず、形を借りてより一層強くその地域で表象される別の植物の形を備えることすらあったはずだ。

返信する

107 2026/08/15(土) 13:27:05 ID:/VnR0ZMnYg
>>1
おい、名誉白人のアホ
「AIで文化消滅、人間が発狂、文明ガー」の与太話はどこ行った?

糖質と芸術家のお仲間を鉄パイプで殴りまくるスケープゴート作戦がダメと来て、お次は口のきけない腰抜けムーブか?

返信する

108 2026/08/16(日) 10:13:50 ID:zDaZF0CGfQ
法整備や、模倣の歴史はひとまず置き、これからの写しとしての芸術のあり様を語るなら、それは日本古来の「もののあはれの写し」であろう。
もののあはれとは、「折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念」であるとされている。
移ろい変わりゆくものの今の一瞬、消えて失われるものの心打つ今の姿を写すこと。心に映じたその一瞬の再現のための写しだ。

天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ

儚く散るのに毎年咲く桜の花、咲き誇っては萎れる四季折々の草花。

日々移ろい同じ姿を決して見せぬ山容、寄せては返す浪の今の一瞬。音や光。

毎年耕す畑に一つとして同じものなく実をつける野菜や果物

生まれてくる赤子、べこ、子猫、仔犬

繰り返しだけど繰り返しではない唯一でかけがえのない何か、日々の暮らし、日常。

心寄せるあれやこれ、心が動くあれやこれ、これが全て写しの暮らしとなり、写しの芸術の契機となる。

役者やドラマもそうであろう。しば漬け作りも狩場太鼓も花見も山行でも。

心に映ずるあはれを写すことであはれを連鎖させる技に芸術は昇華される。

返信する

109 2026/08/16(日) 17:28:38 ID:zDaZF0CGfQ
平安朝の王朝文学などという敷居の高いものがもののあはれではない。明治のお雇い外国人たちは日本の市井の庶民の美意識に驚嘆し、書き留めている。
「どんなに貧しい労働者の家でも、またどんなに小さな、うらぶれた店でも、その軒先や窓辺には、綺麗に整えられた鉢植えが並んでいるか、あるいは季節の一輪の花が生けられている。」「彼らは贅沢な装飾を持たずとも、一輪の花、一本の竹を置くだけで、その空間を極めて芸術的なものに変えてしまう。世界中で日本人ほど、生まれつき自然を愛し、純粋な美を解する国民はいない」
エドワードモースの言葉だ。

返信する

110 2026/08/16(日) 20:02:49 ID:6M/pwIyPZ.
>>1
おい、独り言が激しい病人
「AIで文化消滅、人間が発狂、文明ガー」の与太話はどこ行った?

糖質と芸術家のお仲間をフレンドリーファイアしまくった挙げ句、口のきけない腰抜けムーブかよ


浅はかで姑息過ぎるだよ、お前は

返信する

111 2026/08/16(日) 20:55:52 ID:zDaZF0CGfQ
イデア的な「絶対」は、天上にある永遠不変の絶対だった。
しかし、そこから地上に降ろしてしまうとどうなるか?
すると絶対とは、代替できないものになる。
この人はこの人でしかない。
この土地はこの土地でしかない。
この時間はこの時間でしかない。
この経験はこの経験でしかない。
つまり「絶対」を普遍概念から唯一性へ移すこととなり、芸術が扱うものも変わらざるを得ない。
もはや芸術は「普遍的な美」を探す必要がない。
むしろ、
二度と同じものとして現れない、この一回的なものから受け取る心をどう写すかが芸術の問いになる。
「もののあはれの美学」は、一回性に感ずるエモさである。
これが核心。
「もののあはれ」は、永遠不変の美ではない。
移ろってしまうもの、一度しか現れないもの、失われていくものに触れたときに生じる感受、心の動きだ。
だから、
イデア=永遠に固定された美
もののあはれ=消えていくものの一回性
と置くと、ほとんど正反対になる。
「をかし」は、イイネ!であるとしたら、「もののあはれ」は、エモい、である。写し取るべきはエモさなのだ。単なる無常観ではなく、無常観の中に一回性を見出し、一回性ゆえに立ち上がる情緒を写す。単なる模写、模造、模倣完コピでは生まれない唯一性に心奪われることこそもののあはれの正体。制作は二の次三の次、感ずることに芸術の本格、本体がある。制作はそれを他者にも喚起するスイッチでしかないともいえる。ゆえに自然でも構わぬわけである。

返信する

112 2026/08/19(水) 22:03:53 ID:upLoLMpzGM
ペットショップ店員

返信する

113 2026/08/21(金) 21:38:36 ID:tqe7DCkDos
もののあはれれとは別に、日本から世界に与えることができる美の概念が侘び寂びである。
「わび」「さび」とは、人が作ったものなのに、人が作ったものとは思えない出来栄えに対して使う言葉である。人の技を除けた佇まいがなくてはならない。人工物なのに自然と呼べるものが放つ雰囲気、様子を「わび」「さび」という。「さび」は経年劣化、経時変化が事物に及ぼす影響がやや近しい性質を持つのでまだしも理解しやすい。若くなく、うぶじゃなく、生じゃない。馴染みよく、味わいが深く、のっぺりしていない。決して複雑ではないのに細部まで究め難さを秘めている。
「さびる」とは、「古事記」にも出てくる用法で、「ある状態がとめどなく荒れ進むこと」という原義がある。荒ぶ(すさぶ)に近い。万葉集では「神々しい」「荘厳」「厳か」という意味で「神さぶ」「神さぶる」という表現が出てくる。「やまさぶ」「翁さぶ」「うま人さぶ」などの表現もあり、「らしい」という意味に近くなる。「らしき」ものはなぜ「らしい」のであるかと言えば、何ものかが「宿る」からだろう。神事演舞の扮装演出との絡みであろうと折口信夫は言っている。「神さぶ」はやがて「古色蒼然」とか、長年の歳月を経る」という意味を帯び始める。ついには「人を寄せ付けない」「近寄りがたい」という意味にも逸れる。そこで、私の解釈、「人技」とは思えぬ......も収まりがよくなる。「さびる」は人手を離れて神が宿るのである。

返信する

114 2026/08/22(土) 05:59:11 ID:lvQXJR5hf.
「わび」は放ってある状態、気にも留めない状態、隅っこに追いやられて目立たなく、捨て置かれている姿、粗末で質素、素朴で凝らない。意をかけないこと、ゆえに素のままであり続け、人間にいじられて曲げられていないこと。派手々々しくなく、華美でなく、ゴテゴテ飾らず、理法にのっとり自ずから然り。つまり、人間の介入関与が少ないこと=自然であり、技巧が少なくシンプルであること。無駄なものを削ぎ取った姿にそれがよく表れるからだ。
この二つを併せ持つものを美と結び付け、人工物の美が纏うことができるものだと「発見」したのが桃山文化(芸術)だ。

返信する

115 2026/08/22(土) 08:43:27 ID:lvQXJR5hf.
侘びは人間が退くことで作為から離れて現われる美。寂びは時間が人間を消すことで神が宿る美。
リミナルスペースはある意味侘びであり、時間
要素を加えられたそれは寂びにも触れようとしている試みの一端のようにも思われるものの、これ見よがしに人間不在を明らかな人工物の集積の上に違和として提示しようとしているから、目的が全く異なる。
記憶を撹乱し、ネガイデアを降ろそうとする企みなのである。
https://vt.tiktok.com/ZSVPTuPbo...

返信する

116 2026/08/24(月) 15:32:46 ID:81SLmK3.e6
先史時代から古代、中世、近代、現代、未来まで、西洋から東洋まで、自在に縦横無尽に芸術に関して語り尽くしたが、もはや語り残したことはない。

‪✕‬なるもの:イデア、天才、覇権、著作権、コンセプト、現代アート、オークションハウス、キューレター、ファルマコン、ドラッグ、価格

〇なるもの:ミメーシス、模倣、写し、日常、暮らし、もののあはれ、侘び寂び、唯一性、心動かす確かな手応え、版権、数寄、風流、粋、価値

返信する

117 2026/08/27(木) 16:01:47 ID:1VphantxFQ

おい、名誉白人のポチ犬キ⚫︎ガイ

デタラメの妄想を垂れ流しながら、糖質と芸術家のお仲間をヘイトしまくった事を都合よく忘れようとしとるんか?

ヒューマニストだどうのと抜かすなら、社会不適合者のお仲間への人権侵害と差別発言をしっかり謝罪しろよ

返信する

118 2026/08/27(木) 16:47:14 ID:53.xk6bJsM
人間は形あるもの、現象や出来事にも意味があると思いがちである。ましてや、人の造作したもの、人が行ったことには意味や内容が伴っていない訳がないと考える癖があっても全くおかしくはない。現代アートはこれに甘え、寄りかかったゴミの山に過ぎない。

コンセプチュアル系現代アートは高松次郎的な遊戯に堕している。

現代アートは、アートを問うのではなく、概念を問う座興だ。わざわざ芸術でやる必要はない。

「文字の中で自己矛盾のない文字は、『文字』という文字だけであるということ」

「この七つの文字」とか、

「単体シリーズ」とか、

別に簡単に言語化できるやろってのをわざわざ言語化しないで、言語化できないから芸術なのだと強弁する。

言語化するとなんてことないから避けているだけ。
言葉遊びならぬ形遊びだから芸術だというのであるが、形遊びだから分かりにくい点をもって深遠だ、素晴らしいなどと膝を打ち合う座興に何の意味もない。

芸術を言語化回避で謎をかける無駄な遊びにしてはならない。

返信する

119 2026/08/27(木) 16:59:47 ID:53.xk6bJsM
草間彌生はどうか?水玉やソフトスカルプチャー、
独特な個形態からの集積効果で視覚表現を成立させたよ。椅子やらカボチャやらの基体は集積の舞台ではあるけれも、二次的客体だ。
あるのは埋め尽くしてみたけど何か?だけ。
感じ方のコントロールは放棄されている。

返信する

120 2026/08/27(木) 17:46:21 ID:53.xk6bJsM
>>118言語回避なぞかけ系
>>119わざわざご苦労さま系
この2系統以外の現代アートは、マルセル・デュシャンのレディメイド以来の選ぶ行為をした行為系もありそうだけど、それもわざわざご苦労さま系に含まれてしまうんだよね。バンクシーもクリスト&ジャンヌ=クロードも河原温もわざわざご苦労さま系だ。

返信する

121 2026/08/27(木) 18:16:43 ID:53.xk6bJsM
第三系統がジェームズ・タレル、オラファー・エリアソン、チームラボなどの感覚操作系だな。これは現代アート内では唯一まともな路線で、写し、ミメーシスを超える可能性があるが、トリック・アートとも重なるがゆえに異端視されがち。

返信する

123 2026/08/28(金) 21:25:42 ID:sjdYbPnBEg
•言語回避なぞかけ系
•わざわざご苦労さま系
•感覚操作系
これ以外の現代アートは存在しない。全てこれに回収されるのだが、これら全てをアートを名乗らずやってのけて鑑賞体験させてしまうのがショート動画。
ショート動画を打ち負かそうとアートの方が頑張って演出するのが臨場感や邂逅性。
演出万全の美術館という箱(ホワイトキューブ)に誘導しての邂逅性などたかが知れており、
アートがそんなものにすがったところで、災害という出会い頭には到底敵わない。
現代アートの最高峰は自然災害を含めた災害や事件ということになる。シュトックハウゼンが思わず口にして轟々たる非難の的になった「911はルシファーの宇宙最高のアート」。これが誤解かどうかは疑問の余地があり、現代アートがその邂逅性と臨場感に覚える嫉妬という意味では不謹慎極まりないとはいえあながち的外れではない。戦争や原爆、311などを臨場感や邂逅性に縋るしかない現代アートが敵わないアートだと認めるならば、ネパール大洪水を始めとするニュース映像、SNSに溢れるAI生成デマ動画ですら、エドマンド・バークが言うような安全地帯から眺める崇高、アートの切れ端複製画なのだと言わざるを得ない。

返信する

124 2026/08/29(土) 09:21:53 ID:oOZjt.cxsE
写し、ミメーシスが写すのは何なのか?対象である内はまだ入り口。本当に写しているのは心である。
あるものに、何かを投影して日々眺め、祈る人がいるとして、その人はその何かが、どこにある(いる)と考えているであろうか?ものにいるとは思ってはおらず、心にいるのだとわかっている。その心を写しているのが、ものである。
亡き夫を富士山に重ね合わせて毎日語りかける江里子さん「心にいるのかあそこにいるのかという感じです。」
(NHK小さな旅「わたしの富士山〜山梨県富士河口湖町〜」)
彼女は芸術家ではなく、富士山を作りはしないけれど、写しの何たるかは分かっているようだ。

返信する

125 2026/08/29(土) 11:01:02 ID:oOZjt.cxsE
トレパク作家の古塔つみ、江口寿史らは、写しはするけど心はない。心を写さぬから芸術やアートではない。心を写していれば写真でもアートなのだが。

返信する

126 2026/08/29(土) 18:23:42 ID:oOZjt.cxsE
>>124
江里子さんが富士山を眺めるだけで富士山の写真を撮るでもなく絵を描くでもないのに富士山が、彼女の心を写すのであれば、富士山は立派な「芸術」である。彼女は、心の中の夫の二三年さんを富士に写すだけで良い。ならば心なきトレパク作品であれ、見る者が心を写すのであればそれは「芸術」なのではないか?
そうなるかね。だが、私はそれを「芸術」と呼ぶことを止めよう、写しと呼ぼうと言ってきた。トレパク作品でも写しになるとは言えるだろう。何の問題もない。従って生成AIも写しになりえる。
だが、トレースだから、過去作品データのパクリコピーだから写しなのではない。いずれも心を動かさねば写しとは言えないのだ。

返信する

127 2026/08/30(日) 07:21:10 ID:8moiG4Z83I
その点、心を写してきた成果物を豊富なデータストックからパクれるAIには一日の長がある。心を盗む手練手管も模倣できるのだ。商業美術や他人制作のベストショット剽窃に留まるトレパク屋が心を盗むには他の工夫や努力を要する。有名性に寄りかかった江口寿史よりも無名性からのし上がった古塔つみの方がそのテクニックというか詐術には長けていたであろう。

返信する

128 2026/09/01(火) 04:14:01 ID:oBi4izKaFU
>>80
著作権は集金システムにしか過ぎない、

返信する

129 2026/09/01(火) 21:09:13 ID:KM6uqR63PU
【御阿礼ミアレ】
芸術とは畢竟可視化なのだ。可視化である以上、可視物を写してもせんなく、可視化されなくては現れないものをミアレさせるための行為だ。ラスコー壁画であれば、現れてほしい獲物を可視化する。美しい花であれば、それを美しいと感じる己の心を表す。写真登場ゆえに芸術が廃るというのは安直で、写真が登場するなら美しい瞬間、美しいと感じた一瞬を捉えて可視化することになる。動きでも音楽でもそう。音楽なら可感化と言いたいところだが、比喩的には可視化と同じ。イメージが何らかの形象や波動を具現化して心を揺らすものだからだ。
写しの技というよりも、ミアレの技と呼ぶのが相応しい。

返信する

130 2026/09/02(水) 15:04:11 ID:2EHP7tw5zw
>>129
御阿礼である以上、それは自然物にも現れるし、天変地異も御阿礼だと感受せられるものである。
あらゆる形象、事象、行為、行動が御阿礼と扱うことができる。普通の暮らし、当たり前の行動、ささいな所作仕草にも。写真やスマホの登場は世にある御阿礼を探しスナップするという行動を促した。それら登場前ならスケッチし、語り、見にゆくように勧めたかも知れない。これがアートの原点なので、生成AIによるインチキデマネパール大洪水動画やほのぼの動物動画は、フィクションの御阿礼、虚構に現れた御阿礼である。

返信する

131 2026/09/02(水) 15:17:01 ID:2EHP7tw5zw
[YouTubeで再生]
写真を見ずに実物を見て描けという人がいるが、3Dを2Dに圧縮するのであれば写真でよいはずだ。
https://x.com/aka_nuc/status/209445637665556...

返信する

132 2026/09/04(金) 10:31:24 ID:QNrfgripgo
[YouTubeで再生]
写真は2D圧縮のお手本を示した技術なのであり、カメラ・オブスキュラの時代から、対象を2次元平面上に画材で御阿礼することに練達した画家が輩出した。画材が銀塩感光紙となり、イメージセンサーに変わると、スーパーリアリズム絵画は点描の進化系のピクセルドット写しのような作業化する。
問われるのは形象のリアル=真実性だけではない。写し出されたものがどこまで世界の真実を伝え得るものなのか?という問いだ。
世界とは、所詮は誰かによって解釈されたものでしかないので、どんな絵画も写真も演出と意図と解釈が入り混じった制御されたる創作物であろう。リアリズムと抽象(abstract)には本質的な違いはなく、二つともコンセプチュアルなものでしかない。リアリズムは解釈の幅が狭い分、制約的強制的ではあるかも知れないし、理解が楽かも知れない。だが、手業をいくら精度アップしても他の技術的な写しには叶わないがゆえに、芸としての凄みには限度がある。

返信する

133 2026/09/06(日) 08:01:48 ID:LSsQu3LfYY
存在しないものの可視化、これが原始時代からの芸術の力。画像は4万年前のオーリニャック文化期ライオンマンモチーフ。

返信する

134 2026/09/06(日) 15:07:26 ID:LSsQu3LfYY
[YouTubeで再生]
非存在の可視化が芸術の真骨頂であるならば、マジックもまた芸術であることに異論は出るまい。目を欺くことはあらゆる芸術の基本であり、日本の能などは、舞台上に死霊、神霊を現す技として生まれたさそ、映画はスクリーンに光の像で物語を動画で映し出すもので、非存在の可視化そのものだ。宗教画然り、神像彫刻然り、フィクション、神話、伝説、小説然り。

返信する

135 2026/09/06(日) 20:15:19 ID:LSsQu3LfYY
生物はその殆どが芸術作品のように感じられる。
まるで非存在の可視化であるかのようにだ。 https://video.twimg.com/ext_tw_video/17715806263086366...

返信する

136 2026/09/07(月) 22:57:21 ID:6nTrSNu1.c
生命や事象と言うものは所謂「空」であるから色即是空と言われる。
この空こそが非存在、非実体だとすれば、真なる存在、実体はイデアということになり、プラトニズムに舞い戻ってしまうが、この芸術論考ではそれは拒否した訳である。その代わりにミメーシスをこそ芸術の本体とし、模倣、写しの方が芸術だとしたのだが、プラトンも芸術=ミメーシスと定義したことには変わりなく、彼はミメーシスゆえに芸術を理想国家からパージしたのだった。我々は理想国家もイデアも立てないから、芸術を排斥はしない。むしろミメーシスの営みの中にもののあはれを見出した。もののあはれとは命であり、事象であり、色であり、心、空、移ろう不可視なる心の揺れだ。可視化の最たるものは心の可視化なのであり、心こそは色であり空。非実在である。

返信する

137 2026/09/11(金) 13:29:20 ID:7lPLHHvA42
『卓越したプロンプター佐村河内守✕高性能生成AI新垣隆』
佐村河内ゴーストライター事案は、「AIが一般化する10年も前に、人間同士で『プロンプターと生成AIの関係』を先取りして演じてしまっていた事件」だった。
今では誰もが佐村河内であり、音楽どころか小説もイラストもアニメや映画もゲームやプログラムも指示によって生成できる。映画監督などは元々そうした立場に過ぎす、実際に制作しているのは俳優、脚本家、演出家、カメラマン、音声、音響、音楽、照明、編集技師達である。指示して判断してこれで良かろうと決めることができるなら映画監督なのである。往時の映画監督やプロデューサーとは異なり、予算に縛られることが少ない分、自由度は増し、才能やセンスは剥き出しになる。

返信する

140 2026/09/12(土) 12:37:20 ID:Cdj/AUgIv2
>>137
で。佐村河内はこれやるといいと思うよ。

返信する

141 2026/09/12(土) 15:51:27 ID:Cdj/AUgIv2
AI自身に、著名実在アーチストが、スタッフや制作集団職人に対して実際に行っているであろう指示のみをプロンプト化して生成AIに投げ込んで現作同等の作品が得られやすい順にアーチストを並べさせたらこうなった。

返信する

142 2026/09/12(土) 16:07:08 ID:Cdj/AUgIv2
>>141
やはり新垣だけでは指示が出せないから佐村河内守に負けてしまうわけやね。
アーチストと言うためには指示が出せることなのかもしれないし、指示では代替できない何かをその場のプロセス内でインスピレーションをもよおして即興力に頼る才能を備えた者のことを指すのかも知れない。モダンジャズ即興演奏はプロンプト化できないからこの票のなかでは最下位だろうね。

返信する

143 2026/09/12(土) 16:21:47 ID:Cdj/AUgIv2
[YouTubeで再生]
ベネチア映画祭にもAIフィルムフェスティバルが併設。ドキュメンタリー作品もAIで。

返信する

144 2026/09/14(月) 04:18:30 ID:MCxOPIVss2
[YouTubeで再生]
AIアニメコンテストの類いは下記

1. COLOTEK(コロテック)
日本コロムビアグループ主催のAIクリエイティブコンテスト

2. World AI Film Festival(WAIFF)
AI映像作品を対象とする国際コンテスト

3. AI日本国際映画祭(AI Film Festival Japan)
AIと人間の共創による映像作品を競う映画祭

4. 日中国際アニメ映画祭(JCIAFF)
対象:AI技術を使って制作したアニメーション

5. 36H Anime Sprint
36時間でAIアニメを完成させる制作競争

中国では人間の絵師たちの失業が深刻化

返信する

145 2026/09/14(月) 17:09:00 ID:MCxOPIVss2
テーマ、コンセプトとイメージがあれば芸術ができる時代になりました。逆にこれがないと生成AIがあってもゴーストライターや腕利きのスタッフが充実していても芸術は出来ません。
思想表現的なものに芸術は絞られてゆく。理解し、共感し、分かるものでなくてはならなくなります。テーマやコンセプトを伝えるイメージでなければならないからです。つまり、生成AIだけでは何も創り出せない。創造出来ない。意思がないからです。ものや自然や出来事にも意思を読み取る人間であってみれば、伝わらぬ不親切な作品でも勝手な解釈や意思、想いを忖度されることもあるかもしれませんが、観た人に様々に感じ取って貰って結構という投げ出し方は傑作の多面性を装っただけの失敗作かも知れません。

返信する

146 2026/09/15(火) 21:44:00 ID:BK2ZMWoyEY

▲ページ最上部

ログサイズ:135 KB 有効レス数:141 削除レス数:5





芸術/アート掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:芸術とは何か?

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)