正確には、美の司祭、利休、ヴァリニヤーノに答えて曰く「(美は)私が決めることです。私が選んだ品に、伝説が生まれます。」
「利休にたずねよ」山本健一著
「日常的に使用される既製品の有用性を奪い、サインを施すことで美術の文脈へと持ち込んだマルセル・デュシャンに、なるほどどこか似ています。
彼の行為は美術館や展覧会、それに関わる人々に対する「価値ってなんなの?作家のサインがしてあればアート?」という強烈な皮肉でもあるし、
それまでの「芸術品はアーティストの手作業による一点もの!」というイデオロギーに完全に反しています。
そんなデュシャンと、遠く時空を隔てた利休との間に、その時代の固定観念や常識を覆してものの持つ意味をひっくり返した、という共通点があったのです。
しかも現代美術の父であるデュシャンから遡ることなんと400年!日本にすでに「価値の転換」を行っている人物がいたなんて、ちょっとすごいよね、とお二人。
杉本さんの言葉を借りれば、「デュシャンは、これアートですよ、何か?と言って、利休は、これ花入ですよ、何か?と言った」というわけです。」
(杉本博司×千宗屋「千利休とマルセル・デュシャン|観念の錬金術」2011)
杉本博司曰く「桃山の利休の時代にみる自由精神の発露を、西洋では20世紀のデュシャンまで待たなければならなかった」「利休の「見立て」とデュシャンの「レディメイド」の共通点」云々・・・
だが、美が貫かれていなければ、単なる価値転換、価値創造の経済活動、もしくはトマソンの類の数寄。あるいはトリックアート、錯視錯覚頭の体操。非日常、非常識。クレイジー。
美は感性、感受性だけではない深遠な「生命」の標。キレイの先にある生命肯定の根幹。「生まれてよかった」的感性的な確認、証明、証左。
集合的なそれが撚り合わさって通貨を支える信心に昇華する。
これは並大抵じゃない。情緒が束になって支えているのだ。
情緒をバカにするやつほど観察が情緒的で論理性が欠如している不思議。
説明能力もない。
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